第15回「休み時間の鉛筆削り」の巻
昭和四〇年代というのは、鉛筆を手で削っている子どもと、ナイフで削っている子どもとがちょうど逆転し始めた頃だった。昭和三〇年代頃半ばから、浅沼社会党委員長刺殺事件の影響で、「ナイフを子どもに持たせないようにしましょう」運動が始まり、子どもたちは肥後の守をはじめとする刃をとりあげられてしまった。そのため、このあとは小型の鉛筆削りや、手回し式、電動式の大型鉛筆削りで、鉛筆を削るようになってしまった。これでは工作だってできはしない。どこかの団体が音頭をとって、一部の小学校にはハンドル式の鉛筆削り器を寄附する運動さえあったという。それほどまでにあの事件の影響は大きかった。しかし事件の影響はいまや消え去り、中学生がバタフライナイフを校内に持ち込んでいる現状とは隔世の感がある。
さて、小型の鉛筆削りは昭和二十二年に大和製造所(現・ベロス)が「ベロスの鉛筆削」を発売したのがはじめで、二年後にはゼネラル興業株式会社が三枚刃ハンドル式の「高級事務用鉛筆削器」を発売する。電動式は昭和二十七年にアメリカの製品が紹介されたのがはじめで、国産は昭和三十四年ころからだ。
手持ちの小型鉛筆削りに意匠がこらされるようになったのは昭和三〇年代に入ってからで、ロケットやコケシ型のものが発売された。後には筆箱に装備されたりして、しぶとく今でも生き残っている。あの、鉛筆を回してシュワシュワと出る音が妙に耳に心地好かった記憶がある。
私は昭和三十八年生まれだが、小学校に上がった昭和四十四年頃、自宅でさえ電動の鉛筆けずり使っている子はいなかった。だから教室にある、ベルマークをせっせと貯めてもらった手回し式の鉛筆削り器は大人気だった。
しかし私の親のしつけは厳しかったから、教室の鉛筆削りは使わせてもらえなかった。ナイフで間に合うのだから使うなというのだ。貧乏だったから自宅に買えなかっただけなのに。だからボンナイフという刃物で一本一本、手で削っていた(地域によってはボンナイフではなく「ミッキーナイフ」や「シャープナイフ」と呼称する)。手で削ったのか鉛筆削りで削ったのかは一目でわかる。「うちは鉛筆削りも買えない貧乏なんです」とアピールしているようでとても恥ずかしかった。
クラスメイトは休み時間になると鉛筆削りのある、大きな木製の机の前に順番に並んで、ゴリゴリゴリ……と回していた。面白いように削れるものだから竹や割り箸を削ったりするヤツもいたし、プラモデルの枠の切れ端を突っ込んで回し、中で折れてしまって壊してしまうバカモノもいた。他人にハンドルを回させて「自動!」と騒いでいる横暴で横着なヤツもいた。
僕は親が削ってくれたデコボコのわびしい削り跡が悲しかったから、文房具屋で二、三〇円で売っていた小型鉛筆削りを親にナイショで買ったことがある。だが筆箱の中にあるそれを見つけられてこっぴどく叱られた。ここまで禁止されてしまってはしかたない。僕は手で削る鉛筆を芸術に高める事にした。六角形のお尻の一面を削ってそこに名前を書くというのはポピュラーだったから、鉛筆全体の面を削るのだ。正方形の形に削る面と、削らない面を互い違いにするという「市松模様」に削ったり、鉛筆の芯に溝の切り込みをネジのように渦巻に入れて、「ドリル〜」と言って友人の手のひらをグリグリしたりした。鉛筆の両はじを削ってしまうのは「びんぼーけずり」と呼ばれていたから、実際に「ビンボー」だった僕のプライドから、そんなことはできなかった。ええ、決して。
日直当番になると、放課後に教室の後ろにあるスチール製のゴミ箱まで、鉛筆削り器の中にたまった削りカスを捨てに行かされた。プラスチックの受け皿の中にあふれそうにたまったカスを手で触るとフワフワ、ゴワゴワして気持ちがいい。ナイフで削った、ゴツイかつお節のような削りカスとは大違いだ。
自分は使えないけれど、当番だからクラスメイトのために捨てた。空になったケースを元にはめ、固定するネジをしっかり締めたりしていると、なんだかとても哀しかった。
●はるかを改稿
2006年2月15日更新
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