先日近所を散歩していたら、子供達が水溶性のチョークで道に落書きをしていた。小生が幼稚園の頃は、近所の板塀や石塀に白墨や蝋石でいたずら書きをしたものだった。(あとで大人にこっぴどく叱られたことはいうまでもない)当時の写真を眺めると、家の前の道は砂利がゴロゴロしていて、今日見るようなアスファルトの舗装道ではなかった。
そういえば、昔のアスファルトの道は夏になるとよく溶けて、運動靴の裏がまっ黒になったという記憶もある。今回の昭和のライフでは、そんな裏道を含む「市町村道」の舗装について、取り上げてみたい。
1.「ドロドロ道」との戦い〜「道路舗装」の戦後史
日本の道路を分類すると、まず「高速自動車国道」と「一般道路」に分けられる。道路の長さで見ると、前者が6,851Km、後者が1,164,796Km(平成13年現在)、日本の道路の99.4%は一般道路だ。その一般道路は、更に「国道(正式名称「一般国道」)」、「都道府県道」、「市町村道」(「区道」もここに含む)に分けられる。一般道路に占める比率は、それぞれ、4.6%、11.0%、84.4%。高速道路を「道路輸送の大動脈」に例えるなら、市町村道は「毛細血管」に例えられるだろう。
戦前、日本の陸上輸送の主役は鉄道だった。しかし、現在はトラックが主役を担っている。それは戦後の道路整備のお陰といえる。「道路整備」というと、我々は「高速道路を中心とした道路網の整備」ばかりに目を向けがちだが、「道路舗装の普及」も多大な貢献をしている。昭和20年代には国道の舗装すら十分に行われず、トラックはしばしばぬかるみにはまって立ち往生した。また、トラックがもうもうと上げる土埃は沿線の住民を苦しめた。都心の繁華街は奇麗に舗装されていたが、郊外の住宅地には多くの泥道があり、雨の日の通勤はスーツ姿に長靴が定番だった。そこで政府は、昭和30年代に入ると、悪路を解消すべく道路舗装を積極的に行うようになる。それはまず幹線である国道から始まり、都道府県道、市町村道の順で進んでいった。
舗装された道路の長さ(道路舗装済延長)を道路全体の長さ(実延長)で割って、100を掛けると、「道路舗装率」が求められる。表1−1にある都道府県別「市町村道」舗装率ランキングの推移を見ると、昭和30年代から40年代にかけては大都市を擁する都府県が上位を占めている。高度成長期の大都市は、建設ラッシュで建築車両が行き交っていた。
表1−2では、東京都並びに主要都市の市町村道舗装率を示しているが、昭和39年の東京オリンピックが東京都の、45年の大阪万博が大阪市の、道路舗装率をそれぞれ大幅に押し上げたことがうかがえる。加えて、急増する人口を支えるために他県から大量の物資を搬入したり、周辺からのマイカー通勤を受け入れたことが、交通量を増大させ、都市の道路舗装を更に押し進める結果になった。『朝日新聞』昭和50年2月1日付朝刊16面によると、昭和49年における東京都23区の道路舗装率は、足立区83%、葛飾区87%、江戸川区92%、板橋区94%、練馬区96%、港区・杉並区98%で、残りの各区は100%に達したという。東京都心部での舗装ブームは、この頃ようやく一段落する。
一方、50年代に入ると、地方での道路舗装が盛んになっていく。舗装率ランキングを見ると、55年以降大阪が首位に立ち、新たに、佐賀や大分、香川、鳥取、富山といった県がランク入りした。東京の順位は、55年に2位、60年に4位、平成2年に9位、と年々下がり、平成13年には14位となった。だが、表1−2にある通り、東京都の舗装率は55年以降もわずかながら増え続けている。つまり、東京の順位が落ちたのは、他府県の勢いが東京のそれを上回ったためなのだ。今日、地方では工場が次々と海外に移転し、地域経済の陰りが深まっているというが、道路舗装の勢いは止まらないようだ。
2.「ベタベタ道」の話〜「簡易舗装」とは
表2では、市町村道を、「舗装の種類」という見地から眺めている。
日本でアスファルトによる道路舗装が始まるのは、自動車が普及し始めた明治末年の頃といわれる。しかし、それはあくまで試験的なもので、本格的に行われ出したのは大正に入ってから。大正6年に京浜国道で、12年には明治神宮外苑で、舗装の工事が始まった。(共に、15年に完成)(写真3)都心のアスファルト舗装は、大正12年の関東大震災以後盛んとなるが、工事費がかかるという問題があった。これを解決するため、昭和初期に内務省土木試験所長の牧彦七が「簡易舗装」を考案した。
簡易舗装は交通量の少ない道路を舗装する工法であり、この工法を採用すると工事費を安くすることができた。当初6つほど方法があったが、その中で道路の舗装にアスファルト乳剤を用いる方法が圧倒的に普及した。それは、まずアスファルトを溶かして特殊な乳化剤と混ぜて「アスファルト乳剤」というものを作り、これをならした砂利の上に撒いて表面を固める、という方法だった。ただし、砂利の隙間を埋めるのに多量のアスファルトが必要で、夏の酷暑の際にはこれが溶けて表面がベタベタになるという欠点があった。もし、それを防ごうと撒く乳剤を減らすと、逆に冬の寒冷時に道路にひび割れができてしまうので、結局ベタベタは我慢しなければならなかった。この欠点にもかかわらず、費用面で魅力的だったため、この方法は戦後になってもしばらくの間採用された。そのため、昭和40年代になっても「ベタベタ道」は存在していた。小生の記憶は間違っていなかったのだ。
その後、簡易舗装の方法が変わり、あらかじめ砂利とアスファルトを混ぜておいて、これを道路に敷いてローラー等で押し固める方法が採用されるようになった。これにより、アスファルトの使用量は以前に比べ大幅に減った。また、アスファルトの質自体が向上して、溶けにくくなったこともあって、今日「ベタベタ道」は姿を消している。
表2にある通り、平成13年現在、交通量の多い「舗装道」でのアスファルト道と簡易舗装道の長さを合計すると、市町村道全体の68%に及ぶ。これに対してセメント道はわずか5%に過ぎない。これを舗装に占めるシェアに置き換えると、アスファルト93%、セメント7%となる。データは古くなるが、昭和57年の新聞記事によるとセメント舗装の割合は、アメリカでは55%、西ドイツ(当時)では38%という。(『朝日新聞』昭和57年4月1日付朝刊8面)アスファルト舗装はセメント舗装に比べ、騒音が低くできるし、工期も短く、原油精製の副産物を有効に利用することにもつながる。過去には「ベタベタ道」の問題があったが、アスファルト舗装は日本の市町村道に合った舗装ということができると思う。
[参考文献 |
登芳久『アスファルト舗装史』技報堂出版 平成6年] |
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2003年11月20日更新
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