第13回 日米のヒット・チャート比較
※ラジオ版ポップス少年黄金(狂)時代 絶賛放送中!
ラジオ版・ポップス少年黄金狂時代(60年代こだわりのバラード)
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小学6年生になった頃、つまり1961年の4月には日本でどんな曲がヒットしていたのかというと、例えばTBSラジオの『今週のベスト10』(61年4月17日放送)では、1位「悲しき少年兵」(ジョニー・ディアフィールド)、2位「アラスカ魂」(ジョニー・ホートン)、3位「太陽がいっぱい」(オリジナル・サウンドトラック)、4位「ボーイ・ハント」(コニー・フランシス)、5位「日曜はいやよ」(メルナ・メルクーリ)、6位「遙かなるアラモ」(ブラザーズ・フォー)、7位「カレンダー・ガール」(ニール・セダカ)、8位「G.I.ブルース」(エルヴィス・プレスリー)、9位「きみこそすべて」(ニール・セダカ)、10位「17才よさようなら」(アレックス・ノース楽団)とある。もちろん全部分かる。当時はベスト20なら20曲全部知っていた。さらに日本でヒットしなかった曲もFENのおかげで結構知っていた。
1位の「悲しき少年兵」、切ないメロにいかにもアメリカぽい女性コーラスが加わり、英語の意味は分からなくてもタイトルだけで哀愁を感じてしまう、日本人好みのマイナー・ナンバーだった。本国ではまったくヒットしなかったのに日本で大ヒットしたことを聞きつけたジョニー・ディアフィールドは、この年突如来日して『ザ・ヒットパレード』に出た。甘く切ない声から想像して、リッキー・ネルソンをもっと可愛くしたような顔を期待していたのに、テレビに出てきたのは、地味なおじさん顔の歌手だったのでガッカリした。そして恐らく顔を見せてしまったことが逆効果になって(シングル・ジャケットは変なイラストだったしネ)あれだけヒットしたのにその後は泣かず飛ばずで終ってしまった。
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『悲しき少年兵』 Lonely Soldier Boy
ジョニー・ディアフィールド
おそらくアー写が日本になかったのだろう。 例によって売る気の感じられない適当なデザインになっている。 |
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『悲しきラヴ・レター』 Write A Letter
このジャケットはレアなのでは? 提供はすべて諸君征三郎さんからのもの。
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『戦場に日は落ちて』 He Is Not Just A Soldier この顔が来日した時の顔ですね。リトル・リチャードもシングルを出していた。 日本では坂本九がカバー。 |
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『青い慕情』 Be My Baby この曲はまったく知りません。 原題からするとあの「ビー・マイ・ベイビー」?
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日本でコニー・フランシスの初ヒットは女性版オールディーズの代表曲といえる59年末の「カラーに口紅」だが、私にはちょっぴり早いヒット曲だった。アメリカン・ポップスにどっぷりと浸り始めるのは多分その直後ぐらいからだから、リアルタイムではどの程度ヒットしていたのか記憶が定かではない。コニー・フランシスをはっきり意識したのは4位(『今週のベスト10』)の「ボーイ・ハント」で、彼女特有の“泣き節”を聞かせるこの曲はいかにも日本人が好きそうなタイプの曲だった。彼女が初出演した映画の主題歌でもあったこの曲はアメリカでもヒットした(61年3月、4位)が、その後「夢のデイト」など日本独自のヒット曲を含め、「大人になりたい」「可愛いベイビー」「ヴァケイション」「想い出の冬休み」など日本語バージョンによる特大ヒット曲が目白押しとなる。
いつ来日しても大成功する状況だったのに絶頂期を過ぎた頃(65年10月)になって初めてコンサート来日した。しかし、この年はすでにベンチャーズがエレキ・ブームを巻き起こし、ピーター&ゴードン、アニマルズ、ハニーカムズのブリティッシュ・ビート勢や、シルヴィ・バルタンやジリオラ・チンクエッティなどのユーロ勢も来日公演してたりして、コニー・フランシスの時代は終りに近かった。63年くらいに来日していたら、当然『ザ・ヒットパレード』などにも出演しただろうし、大変なことになっていたんじゃないだろうか。それでも60年代を代表する女性ポップシンガーの第一人者には変わりはなく、日本では女性部門の人気を長い間独占していた。
『今週のベスト10』に戻ると、「ボーイ・ハント」の作者でもあるニール・セダカの曲が7位と9位に入っている。ベスト10中3曲に絡むというのはすごい。3曲ともヒット曲を生むゴールデン・コンビ、ニール・セダカ/ハワード・グリーンフィールドによる作。まさに絶好調だった。ニール・セダカはコニー・フランシスとは逆に来日するのが少し早すぎた(60年4月)。「恋の片道切符」がヒットはしていたものの、まだ1曲だけだったし、やはり来るのなら62〜63年頃がよかったんじゃないかと思う。
10位の「17才よさようなら」はイタリアのカトリーヌ・スパーク主演の映画『17才よさようなら』の主題歌、「♪アリベデルチ〜」と聞けば思い出す人も多いのでは。スタイルバツグンのカトリーヌ・スパークはこのあと、映画『太陽の下の18歳』や『狂ったバカンス』などで日本でも人気が出た。「♪エジレジーレバイ」(ジャンニ・モランディ)のツイスト時代ですね。カトリーヌ・スパークの踊るツイストは可愛かった。
ということで、61年4月17日時点の日本のラジオのベスト10ではアメリカでヒットしたポップスは2、4、6、7、9位と半分しかない。他方、同時期のアメリカン・チャートを見ると(61年4月3日のビルボード)、1位「ブルー・ムーン」(マーセルズ)、2位「アパッチ」(ヨルゲン・イングマン)、3位「サレンダー」(エルヴィス・プレスリー)、4位「ポニー・タイム」(チャビー・チェッカー)、5位「愛する貴方に」(シレルズ)という順位。このなかで日本でヒットしたのはエルヴィスだけじゃないか。
1位の「ブルー・ムーン」は、いわずと知れたリチャード・ロジャースの名バラード曲。それを、黒人と白人混合のグループが、原曲の持つ甘い香りを全部取ってしまって、「♪バーバコ・バーボ〜」という軽快なコーラスで始まる明るい曲に大変身させた。我々兄弟は一発で気に入りシングル盤を買いに走ったが、この曲も売ってなかった。当時はまだドゥワップという呼び名はなく、こんな変な感じの面白い歌(特に黒人の歌う独特の世界)を知っていくこと自体がたまらなく嬉しかった。
当時黒人グループといえば日本ではプラターズのことを指した。プラターズといえば、「オンリー・ユー」「煙が目にしみる」「トワイライト・タイム」「マイ・プレイヤー」「グレイト・プリテンダー」等、数々の名バラードを声量たっぷりに熱唱するので、他のグループは黒人といえどもどれも見劣りした感があった。テナーのトニー・ウィリアムズの声も良かったが、バス担当のハーバート・リードの低音は人間の出せる音域に思えないほど低かった。圧巻は当時流行っていた「ユール・ネバー・ノー」のバスの声で、これはもう誰がやってもハーバート・リードには敵わなかった。ダークダックスのバス担当のゾウさんが歌った「♪ユー・ネーバー・ノー〜」は可哀相なほど頼りなかった。プラターズが61年に来日したときテレビで見たが、テナーがトニー・ウィリアムズより声量が乏しいまだ少し青い感じのソニー・ターナーに代わっていたのが残念だった。
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『THE BEST OF THE PLATTERS』
ザ・プラターズ
結成10周年を記念して1964年に発売された2枚組LP、邦題『豪華版ザ・プラターズのすべて』。かなり後追いですが、当時3,000円の2枚組を買いました。「マイ・プレイヤー」や「グレイト・プリテンダー」など50年代の大ヒット曲にシビレました。 |
マーセルズの「ブルー・ムーン」は結局手に入れられず、日本でオンエアもされずに消えてしまったので、FENで2〜3回聴いただけに終わってしまった。63年に大ヒットしたジョニー・シンバルの「ミスター・ベースマン」を初めて聴いたとき、「♪バーバコ・バーボ〜」と始まるのをマーセルズの「ブルー・ムーン」のパクリじゃないかと思いつつも気に入りすぐにレコード・ショップに走った。買えなかった本家「♪バーバコ・バーボ〜」のマーセルズは意外なところでその後遭遇することになる。
2位「アパッチ」も日本で聞いたことがない。FENでおそらく聞いたであろうが記憶にない。私は、後にシャドウズのLPに入っていたバージョンで何度も聞き、自分でも買ったばかりのエレキで爪弾いたりした。そうそうベンチャーズもやっていたな。4位「ポニー・タイム」のチャビー・チェッカーは、60年の全米大ヒット「ザ・ツイスト」がその時日本ではヒットせず、62年に世界的なツイスト・ブームになってから知られるので、当然この「ポニー・タイム」もまだお目見えしていない(はず)。5位シレルズの「愛する貴方に(Dedicated To The One I Love)」は、元は59年に発売されたがさして売れなかったものの、「ウィル・ユー・ラブ・ミー・トゥモロウ」の大ヒット(61年1月、1位)を受けての再発売でヒットした曲。日本ではどちらの曲も無反応だった。「ウィル・ユー・ラブ・ミー・トゥモロウ」は発売されたが(但しザ・シャイアルズ名義)、「愛する貴方に」は発売すらされていないのではないか。
というように、アメリカ文化のエッセンスを体感できるポップ・ミュージックをすべて吸収しようと思っていたのに、実は一部だけしか日本には入ってこず、まともには全く紹介されてこなかったというわけだ。残念。我々はFENで聞いて気に入った曲が日本で発売されるのを楽しみに待つのだが、なかなか発売はされないし、発売されたとしてもいつも行く三軒茶屋のレコード・ショップには入荷されなかった曲もたくさんあったのかもしれない。
新譜の情報は毎月『レコード・マンスリー』という各社の新譜情報が掲載された月刊の小雑誌(B6サイズぐらいの横長判)をレコード・ショップでもらってチェックした。好きな曲は多いのに、小遣いは限られているし、買ってから失敗したと思うような曲にお金は使いたくない。幸いと言うべきか、日本でヒットする曲は当時寿命が長かったので、あちこちのラジオ番組を聴いていくうちに飽きてしまう。それがポップスの宿命というもの。だから、何度聞いても飽きないような楽曲を選ぶことで買う枚数を抑えていたのだ。
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修学旅行先の日光にて
61年、小6の夏、修学旅行で日光へ。宿に着いたところで記念撮影。 いくら大部屋といっても17人も同部屋のはずがないから他の部屋の奴も来たのだろう。部屋にはラジオが付いていたのですぐにスイッチを入れたら、アルマ・コーガンの「ポケット・トランジスタ」が流れていた。 |
※印 画像提供…諸君征三郎さん
2008年 9月3日更新
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