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「ポップス少年」タイトル

リトル・R・オノ

第14回
「悲しき小学生」の切ない夏

※ラジオ版ポップス少年黄金(狂)時代  絶賛放送中!

ラジオ版・ポップス少年黄金狂時代(60年代こだわりのバラード)
http://www.maboroshi-ch.com/hoso/item-29.html

第2回ラジオ版ポップス少年黄金(狂)時代〜前編
http://www.maboroshi-ch.com/hoso/item-26338.html

第2回ラジオ版ポップス少年黄金(狂)時代〜後編
http://www.maboroshi-ch.com/hoso/item-26424.html


秋の大収穫祭〜ラジオ版ポップス少年・スペシャル〜前編
http://www.maboroshi-ch.com/hoso/item-28412.html


秋の大収穫祭〜ラジオ版ポップス少年・スペシャル〜後編
http://www.maboroshi-ch.com/hoso/item-29164.html



 夏になると昔はよく断水していた記憶がある。昭和30年代の夏だ。遊び盛りの我々は、小学校の水道水を浴びるほど飲むぐらい毎日体を動かして遊んだ。だから断水になると大変なのだが、何故か、用務員室の中にある蛇口だけから水道水が出る。他の蛇口からは一滴も出ないから、休み時間ともなるとそこに長蛇の列ができる。
 我々6年生は最上級生の特権とばかり、「ゴメン、一口だけ」とか言って最前列に割り込み、水を飲む。下級生から文句は出ない。ある日、数人の仲間とそのようにして割り込んだ時、ニコニコしながら「もうしょうがないわね、この6年男子たちは」というような表情で順番を待っている女の子と目が合った。「ドキッ」… 誰だ! この可愛い子は。そう意識したとたん、汗だらけの顔がみるみる火照り、さらに大汗がふき出してくるのだった。
 吉永小百合に似たその女の子は5年生のK平M子ということがしばらくしてから分かった。勉強ができてピアノが上手い。彼女の担任の男教師がM子を“えこひいき”している、等々。聞いて回ったわけではないが、M子の情報が何となく入ってくるのだ。私がそれまで知らなかっただけで、その可愛さのせいで6年生の間でもかなり有名な子だったようだ。間近で見たのはあの水道の時しかなかったが、そのときの可憐な表情がしっかりと脳裏に焼きついてしまった。それ以来遠目からM子のクラス5年3組方面に目をやることが多くなった。しかし、わざわざ見に行くわけにもいかないし、ということで、水のみ場での接近遭遇以降、至近距離での遭遇は二度とやってこなかった。切ない6年生の初恋だった。

61年秋の運動会

61年秋の運動会
 我々のクラス6年1組の集合写真。この写真を購入して驚いた。何と5年3組のM子が写っていたのだ! 写真の遠くの方で一番右にいる子。ピンボケだけど私にはハッキリ分かった。見つけたときのドキドキ感といったらなかったが、誰かに言えることでもなかった。

 悲しき小学6年生の胸のうずきを癒してくれるのは切ないアメリカン・ポップスしかなかった。この頃「悲しき〜」という邦題がやたらと多かったが、そのなかでも特に好きになったのは何と言っても「悲しき街角」だ。この時代の曲はシンプルなコード進行が多いので1回聴くだけでメロディが記憶の回路にベチャッと貼りついてしまう。それに加えて声が個性的だから、1回しか聴いたことのない歌でも誰の声か一発で分かる。デル・シャノンは特にそんな声の持ち主だった。必ずファルセットで歌う箇所があるのだが、それも迫力を残したまま張って歌えているので気持がいい。
 「グッド・タイミング」を歌ったジミー・ジョーンズの「♪タカタカタカタカ」もそうだったが、迫力のある裏声を武器にするような楽曲は日本にはなかった。日本ではハワイアンの流れをくむ、例えばマヒナスターズの“女形のような裏声コーラス”ぐらいしかなかったから、デル・シャノンの裏声はとても新鮮だったのだ。「悲しき街角」を日本語でカバーした飯田久彦がマユを上げ下げしながら「♪ワーワーワーワー・ワンダー」と歌うファルセットは原曲とは全く違う代物に聴こえた。
 デル・シャノンはこのデビュー作「悲しき街角」(全米1位)が日本でも大ヒットしたので、次のヒット曲“Hats Off To Larry” (全米5位)も邦題が「花咲く街角」となり、“街角男”と呼称させられてしまった。「花咲く街角」ももちろんファルセットが一番のポイントのところで生かされていて嬉しかったなあ。我々兄弟はシングル盤を我慢して少しあとになって発売された4曲入りEP盤『Golden Hits』を買った。このなかにはディオンの大ヒット曲「悲しい恋の物語」のカバーが入っていて、デル・バージョンもいいセンいってたので得した気がした。
 デル・シャノンは他にも「さらば街角(So Long Baby)」「恋する街角(Give Her Lots Of Lovin`)」や、ウチのEPに入っていた“Little Town Flirt”は「街角のプレイ・ガール」など、どこまでも“街角男”の異名に恥じないタイトル付けがなされた。担当者の意地を感じる。あんまり意味なかったんじゃないかとも思うが。

『悲しき街角』

『悲しき街角』 Runaway
 デル・シャノン

 このジュークボックスを前にしたジャケットは当時このレーベルに数多く見られた。このデザインを見るたびに「またかよ」と思ったが、今では、いかにもドーナツ盤を聴いてます、という当時の雰囲気がよく出てていいなあと思う。


『花咲く街角』

 『花咲く街角』 Hats Off To Larry
「悲しき街角」に勝るとも劣らない名ポップス。 これも飯田久彦が日本語カバー。「ステキなタイミング」で「♪タカタカタカタカ」とジミー・ジョーンズばりのファルセットを聴かせた坂本九もこの曲をカバーしてる。


『さらば街角』

『さらば街角』 So Long Baby
 第3弾シングル。パンチのあるノリは健在だが、前2作と比べると平凡。全米最高28位。ジャック・スコットの「クライ・クライ・クライ」のカバーでお馴染みの倉光薫(どこが?)がこの曲のカバーしている。


『街角のプレイ・ガール』

 『街角のプレイ・ガール』 Little Town Flirt
 ファルセット健在。デル・シャノンはこれらのほかにも「ハンディ・マン」(ジミー・ジョーンズのカバー)でもジミーばりのファルセットを聞かせヒットさせた。


『GOLDEN HITS』

 『GOLDEN HITS』
 シングルを買わずに待った甲斐があったEP盤。「悲しき〜」「花咲く〜」「〜のプレイ・ガール」「悲しい恋の物語」の4曲入り。

 デル・シャノンが“街角男”の異名から解放されるのは、やはりファルセットを要所に使い成功した65年の“Keep Searchin`”(全米9位)が「太陽を探せ」と訳されてからか。もっともその前に、ビートルズの「フロム・ミー・トゥ・ユー」をカバーしてビートルズ本人達より早くアメリカでレノン&マッカートニー作を100位以内に送り込んだりもした(63年、77位)。「フロム・ミー・トゥ・ユー」をカバーした意図はイギリス公演でビートルズと共演したことがキッカケのようだが(その時「フロム・ミー・トゥ・ユー」は全英1位だった)、ひょっとするとビートルズのファルセットを聴いてピンと来たのかも。
 63年当時はビートルズのことも「フロム・ミー・トゥ・ユー」のカバーのことも知らなかったので、「太陽を探せ」で久々に全米チャートに入ってきたときは興奮した。デル・シャノンぽさが全面に出ていて(もちろんファルセットも巧みに使っている)、かつ65年なりの雰囲気(つまりブリティッシュ・インヴェイジョン後)も持っていたからだ。
 また「太陽を探せ」のヒットとほぼ同時期、ピーター&ゴードンに楽曲提供した「アイ・ゴー・トゥ・ピーセス」(デル自らも歌っているが)も全米チャートの9位まで上った。デル・シャノンの新時代到来か、と本人は思ったんじゃないか。しかしそれ以降日本ではサッパリ名前を聞かなくなった。そしてさらに悲しいことに90年に猟銃自殺してしまう。

 「悲しき〜」タイトルでは他に、軽快でいて物悲しいスティーヴ・ローレンスの「悲しきあしおと」もレコードは買わなかったけど大好きな曲だった。ヴォーカルにずっとからんでいく「♪パッパ・パパパ・パッパ」というバックの“合いの手女性コーラス”など日本の曲には絶対なかったし、サビの「♪ワイ・オー・ワイオー・ワイオー」なんかもオシャレでいて切なくて気持ちよかった。
 スティーヴ・ローレンスは63年に、ジェリー・ゴフィンとキャロル・キングの書いた「かなわぬ恋(Go Away Little Girl)」で全米1位になるが、ここではすっかり大人の歌そのものになっていた。ルックスのせいもあり「悲しきあしおと」以外の曲はアンディ・ウィリアムス・タイプの大人の感じに思えた。「悲しきあしおと」もよく聴けば歌は落ち着いていて上手すぎるし、おじさんが若作りして歌ってる感じにも聴こえる。やはり女性コーラスのポップさ加減が小学生にも分かりやすく聴こえたのだろう。この曲はパラキンの佐野修が「電話でキッス」と双璧を成すほどの甘ったるさでカバーしていた。あのニコニコ顔は消そうとしても絶対に消すことができない。

『悲しきあしおと』

 『悲しきあしおと』 Footstep
 スティーヴ・ローレンス

 バリー・マンがハンク・ハンターと共作した初期のヒット作品。60年4月全米7位。スティーヴ・ローレンスの奥さんはやはりヒット・シンガーのイーディ・ゴーメで、当時“おしどり夫婦”として有名だった。


『悲しきあしおと』(B面)

 『悲しきあしおと』 (B面)
 佐野修 

 この人はどんな曲でもいつでもニコニコ楽しそうに歌っていて(今でも!)、言ってみれば60年代アメリカン・ポップスの一番の申し子なのかもしれない。

 14歳でデビューした英国女性歌手のヘレン・シャピロの第2弾 “You Don`t Know”も「悲しきかた想い」という邦題がつけられた。英国ではデビュー曲「子供じゃないの」からいきなりの大ヒット。続く「♪ウォー・ウウォウ・ウォー」と始まるバラード曲「悲しきかた想い」は全英ナンバー・ワンの大ヒット。第三弾「夢見る恋」も1位。日本でもそれぞれヒットしたが、アメリカでは当時の常として他の英国シンガー同様なかなかヒットに恵まれなかった。
 売れる前のビートルズが英国内のコンサート・ツアーで彼女の前座を務めたことは有名な話で(ツアー途中でビートルズ人気が爆発して前座とトリが逆転する)、余談だが、ジョージ・ハリスン初のオリジナル曲「ドント・バザー・ミー」は、「子供じゃないの」のなかで印象的に歌われる“Don`t bother me”という歌詞がツアー共演者のジョージに刷り込まれたからじゃないかと、私は勝手に思っている。
 ヘレン・シャピロのデビュー曲は弘田三枝子のデビュー曲でもあった。奇しくも同じ14歳で弘田三枝子は「子供じゃないの」と「悲しきかた想い」のカップリングでのデビューだった。テンポの良いポップ・ナンバーとバラードをAB面に入れることで歌の上手さと味を同時にアピールできたのは、ヘレン・シャピロという見本がいたお陰と言えるかもしれないが、いずれにしても日英で同時期に天才ハイティーン歌手が生れたわけで、偶然にしてはできすぎの感じがする。
 日本では弘田三枝子の出現で、それまでのポップ系の女性歌手すべてがかすんでしまった。そのくらいの迫力と実力があった。私はどこまでも西田佐知子派だけどね。弘田三枝子が歌唱力に秀でていたことは確かだが、それをひけらかすというか、オーバー歌唱がやや鼻についた。これは本人のせいではなくディレクションする側の問題だろうと思うが。

『悲しきかた想い/子供じゃないの』

 『悲しきかた想い/子供じゃないの』 
 You Don`t Know/Don`t Treat Me Like A Child
 ヘレン・シャピロ 

 「ウウォウォウ」「イエイエイ」はヒット・ポップスの定番。日本デビューは第一弾と第二弾シングルのカップリング。


『夢みる恋』

 『夢みる恋』 Walkin` Back To Happiness
 こちらは「ウッパー・オー・イエイエイ」と多少の変化を見せた。


『子供ぢゃないの/悲しき片想い』

 『子供ぢゃないの/悲しき片想い』 
 弘田三枝子 

 ヘレン・シャピロの両面カバー(漣健児訳詞)でスタートした歌手人生は、終始存在感を発揮したまま未だに“パンチ力”は健在のようだ。

 いずれにしても、当時はオリジナルの外国曲より日本語カバーの方がテレビで歌える分、売れていたのではないかと思う。「パイナップル・プリンセス」のアネットなどはレコード会社の問題で日本に紹介されるのが遅かったため、日本で人気が出る前に終っていた感がある。だから田代みどりが歌った「パイナップル・プリンセス」はアネットのカバーというより、田代みどりのオリジナルと思っていた人も多いはず。これは訳詞(漣健児)のセンスも大いに関係していると思うが、ちょっとこましゃくれた感じの田代みどりの歌い方はテレビでとてもキュートに映った。当時からあまり聴いたことのなかったアネット・バージョンは、今聴いても平板な感じに聴こえる。ついでに言うと、ポール・アンカがアネットのために作ったといわれる「恋の汽車ポッポ」も、アネット・バージョンは歌に表情が乏しい。これもポール・アンカ本人やアルマ・コーガンのバージョンの方が断然よかったな、私的には。


※印  画像提供…諸君征三郎さん



2008年10月15日更新
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