串間努
第10回「たまごシャンプー、いい匂い」の巻
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昭和44年頃、内風呂がある家と銭湯に通っている家の割合は、半々くらいであった。私の家は銭湯派。なぜか母と一緒に、わざわざボンネットバスに30分もゆられて出かけていった。不思議なことに母に連れられて行く時は、母の実家にほど近い銭湯へ、父親と行くときはスーパーカブの荷台に乗せられて勤務先近くの銭湯へと、それぞれ連れていかれた。家の近所にも銭湯はあったのにかかわらず。親というのは自分のなわばり内にある店や施設に子どもを連れていくものらしい。その帰りにラーメンを食べたり、千葉の駅ビルで買い物をするのがとても楽しみだった。
番台には、大きな柱時計を背にしておばさんが座っていた。当時は人件費が安かったのか、女湯には赤ちゃんを世話する、子守りの女性がいた。ベビーベッドに寝かせている間にお母さんたちは急いでお風呂に入っていた。今でもそうなのか、女性は髪を洗うからといって、料金が余計に掛かっていた。げた箱が置いてある土間には星崎電機のジュース販売機「オアシス」がオレンヂジュースの噴水を吹き上げていた。
なぜかシャンプーは銭湯に行くたび番台で買っていた。
生まれて初めて見たシャンプーは袋に入っていた。といったら20代の読者は驚くだろうか。
花王石鹸の「カオーフェザーシャンプー」は、アルミホイル袋に三グラム入りだった。おふくろと一緒に行った時はもっぱらこれ。
子ども同士で行った銭湯や、おやじに連れて行かれたところでは「タマゴシャンプー」というのを使った。なんとも言えないイイ匂いのする小さなボトルシャンプーで、最後まで使い切るために、スポイトのように何度もお湯を吸わせては髪にかけ、内部に一滴も残らないようにした。捨ててあるシャンプーを拾って少量の中身を集めたりもした。あの頃はビンボーくさかったのだ。そのタマゴシャンプーは名古屋の美香園というところで作っている。
美香園は大正元年の創業から石鹸とシャンプーを作っていたが、当時は髪洗い粉と言っていた。
「日本で最初に『シャンプー 』という商標を使ったのが、ウチの『タマゴシャンプー』なんですよ。タマゴシャンプーのいわれは、卵の卵白を粉末したものを、粉石鹸に混ぜたんです。今でいうリンスインシャンプーみたいなものです。平安朝の女性が卵の卵白をリンスがわりに髪に付けていたことを祖父が聞きまして、作ったら女性にめちゃくちゃ売れました」(河合社長の話)
戦前から銭湯にも置いており、シェアは8割以上だった。しかし花王石鹸が昭和30年にアルミ袋入りのものを出したことからシェアが逆転する。
「当社のは紙の箱入りだったからで、紙だと水分を吸って固まっちゃうんです。そこでうちは液体を出しました」
銭湯で売れたピークは昭和30〜40年代の半ばくらいまで。昭和48年の石油ショックを境にお風呂屋さんも衰退していった。今の銭湯はタマゴシャンプー系、花王系、ホルコン系と分かれていてそれぞれ50%、40%、10%といった割合だ。なぜか私が行く銭湯は10%のホルコンシャンプーなので美香園のモノには出会えていない……。
私が子どもの頃はまだ専用の腰掛けがないので、木の桶をタイルの床に伏せて座った。シャワーも全部にはついてなくて、両端の壁際だけだった。混んでいるときに、真ん中の列の洗い場になってしまうと、カラン(湯と水の蛇口)から桶に汲む。ジャーとひねって何度も頭にかけるのは子どもには面倒だった。
開けたての銭湯には常連の古株がたむろしていて、汚れた湯が自由に流せる上流から順番に席をとれるヒエラルキーがあった。
子ども心にもいろんなことを学んだ銭湯文化。失われていくのは哀しいことだ。
●「GON」と「小五教育技術」を改稿
2003年8月1日更新
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