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第10回「くじ」の巻
日曜研究家串間努
 

くじ人間的なくじ

 渋谷では2人組の女子高校生が「1回千円。パンツの色を当てたら1分間、胸をさわらせてあげる」という子が出没しているという。2人の子の色を当てなければいけないので、組み合わせは4通りあるわけだ。当初は普通にやっていたらしいのだが、結構当てる男が多いので彼女たちはごまかす方法を編み出した。パンツを重ねてはいて、当たりの色だったらポケットから手を突っ込んで、上にはいたパンツをむしりとってしまうのだ。もちろん上のパンツには切れ目なりを入れておいてすぐに下のパンツが現れるようにしておく。手品の一種である。この話を聞いてボクは小さいころにあったインチキくじのことを思い出した。

くじ一等 夏のおまつりの季節。おまつりと言えば屋台。子どもの頃、近所の神社で年に2日だけ縁日が立った。当時はギャンブル系の店が多かった気がする。輪投げ、型抜き、などのほか、「くじ屋」があった。
 そのオジサンは屋台がなくて、神社の境内に立っていた。5円玉のくじを持って立っていた。3本の竹串を持っていて、どれに5円玉がヒモでぶら下がっているかを当てさせる。1回100円だ。当たると確か500円が貰えた。これはスゴイ。ハズレは『T鉛筆』というブランドの鉛筆が2本。不良品を安く買ってきたのだろう、削っても削っても芯が折れて使いものにならなかった。

連続三角くじ 『チロチ』というアダ名の友人がいて、このクジに彼ははまり何度も100円玉を差し出しては、外れていた。このオジサン、インチキしているから当たるワケがない。ボクらがハズレを指差せばそのまま「残念! 真ん中でした」というだけだが、当たりをさしたりすると、うまく手品を使ってハズレの竹串にひっかけ直してしまう。チロチは何千円も使ってしまい、最後には泣いてしまった。どこからか抗議がきたのだろう、翌年からは姿を表さなかった。
 もっと真面目で毎年来た「くじ屋」もある。机の上に当たりの景品を並べていたオジサンは、「なんでナガシマ先生がお祭りで、クジ売っているんだ?」とギモンに思うほど一年三組の担任にそっくりだった。景品は、小型の卓上ミシンやオペラグラス、ちょっとした玩具など。1等から10等まであって、10等は鉛筆2本。

くじ残念 くじは50円(昭和45年当時)出して引く。「1回ね」と言って100円玉を出すとオジサンは、「はい、50万円のおつり」と、ギャグを真面目な顔でいいながら50円玉をくれる。クジはなんと大学ノートを細かく切って小さな正方形に折りたたんだ手作りのものだった。
 オジサンは、子どもをはめるのが上手で、「ホラ、今オジサンが引いて見るよ、エイッ」と箱から引くと、「1等」と書かれたくじが本当に出て、ハズレばかりで帰りそうな子どもらの足をとどめた。これも手品である。
 卓上ミシンなど、豪華なものは絶対に当らない。何年も使い回されほこりだらけで古びていた。当時としてもそんなに魅力的だったとは言えないし、あんまり当たらないから、ボクらも飽きてきた。しかし、このオジサンはボクらが離れていくのを防ぐワザを編み出した。翌年、すごい景品が登場したのだ。千円札入りの定期入れだ。オジサンは「コレみんな欲しいだろ」と言いながら、千円札を入れた。千円といったら、今の一万円くらいの価値が感覚としてあった。わかりやすくいうと、百円のクジで、ファミコンが当たる感じだ。……でも、これをめざしてみんな50 円払い続けたが、なかなか当たらなかった。このクジ屋も10年前にはもう来なくなった。
くじスカリ 「絶対当たらないクジ屋」。でも、これが失われた今としては、もう一度ナガシマ先生に似たオジサンにあって、思う存分騙されてみたい気もちょっとだけするのだ。

キャラメルのくじ

 このように子どもたちがくじが好きなのは射倖心に訴えるからだ。
 働けない子どもたちが、小遣いの他にお金を得る方法は正月に親戚からお年玉を貰うか、親の誕生日に「肩たたき券」を発行するかくらいしかなかった。
五円三角くじ そこで、戦後、まずキャラメルメーカーがくじによる販促戦略を試みた。
 昭和30年7月ころのキャラメルメーカーは空サックによる幸運者抽選サービスを実施、やれ自転車だラジオだ映画の招待だと絶え間がなかった。このため近頃娯楽場や行楽地では空サックの落ちているのはほとんどみられないという、環境にやさしい現象が起きていたという。東京の球場ではプロ野球終了後、スタンドで空サックを拾い集めている子どもがいた。
 それら、キャラメルの空き箱や駄菓子のクジの横行に世間はまゆをひそめていた。
 「最近の券つきキャラメルやガムの横行は目に余るものがあります。あるキャラメルは字合わせ、点数集めなどで、さまざまの賞品や本などを出しています。子供はその賞品ほしさに味の悪いキャラメルでもほしがります。ある子供は字を合わせたいためにキャラメルを買い、まずいので食べずにおいてあるそうです。券でそんなに賞品を出す費用があったら、それでも品物の質をよくすれば、自然に売れるのではないでしょうか。また当局でもこんなことをきびしく取り締まる規則はないものでしょうか。(東京・主婦)」という投稿が昭和29年の「朝日新聞」に掲載されている。
大当り 確かに他の菓子が出まわるにつれてキャラメルの売り上げが落ちていくなか、全体の売上げの6割を占めていたのは明治・森永でしかも両者の売り上げは伸びていた。味がよければ景品がなくても売れたという証明であろう。しかしそのしわよせが残りの中堅・零細メーカーに寄り、それが景品競争を促進したのである。
 くじに魅力があった時代。いまは昔の物語である。

「小五教育技術」を改稿


2003年8月5日更新
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