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「昭和のライフ」タイトル

アカデミア青木

矢切の渡し

第17回 渡し船よありがとう


 長かった冬が終わり、ぽかぽかした日が続くようになると、江戸川の「矢切の渡し」(東京都葛飾区・柴又と千葉県松戸市・矢切を結ぶ)に大行列が出現する。映画『男はつらいよ』の舞台である帝釈天詣での客や『矢切の渡し』を歌う細川たかしのファン、地元の遠足会のメンバーなど、中高年の一行が押し寄せるためだ。船着き場で待つこと数十分。木造船に乗り込んで、水面を渡る春風を頬で感じつつ、対岸へ渡る。ただそれだけのことだが、不思議と心がなごんでくる。この時代劇を思わせるような1コマは、かつて全国の至る所で見ることができた。しかし、戦後、渡し(渡船場)の大半は橋に取って代わられ、今はわずかしか残っていない。今回の昭和のライフでは、そんな渡しがたどった歴史を眺めてみたい。

1.地域の交通を支えた「渡し」

佃の渡し跡

佃の渡し跡

 渡しは、昔から地域の交通を支えてきた。「矢切の渡し」は、江戸川の両岸に耕作地を持つ農民のために始まり、東京都中央区にあった「佃の渡し」や「月島の渡し」は、埋立地に住む人々の往来を助けるために活躍した。多摩川にあった「六郷の渡し」(東京都大田区・六郷と川崎市を結ぶ。明治7年廃止)は、東海道を結ぶ重要な渡しの一つだった。 明治初年の記録によると東京には68ヶ所の渡しがあり、隅田川流域に10ヶ所、荒川流域に14ヶ所、中川流域に12ヶ所、多摩川流域に7ヶ所、江戸川流域に8ヶ所を数えた。当時、渡船業の許可権は府や県が持っていたが、運営は「旧来の慣習」に基づいて地元の町村や地主などの有志に委ねられていた。ところが、維新後の急速な社会変化の中で、旧来の慣習によって解決することができない様々な紛争が起きた。小は船頭との請負契約から大は県境の渡船の許可権を巡る争いまで、当局は大いに悩まされることになった。

月島の渡し跡

月島の渡し跡(わたし児童遊園)

六郷の渡し跡

六郷の渡し跡(六郷橋)

2.「渡し」は道路の一部です

 大正9年に施行された「道路法」によって、「国道」、「府県道」、「市道」、「町村道」を結ぶ渡しは「道路」の一部とされ(これを「道路渡船」という)、その維持管理は道路管理者である府県、市、町村が担うようになった。(「国道」は府県が管理した)ところで、東京市はそのはるか以前の明治34年に「月島の渡し」を市営化し、その翌年から無料の渡し船を運行している。これは、月島を臨海工業地域として発展させるためにおこなわれたのだが、「道路法」成立後は全国に道路渡船を無料化する動きが広まった。ちなみに、「佃の渡し」は大正15年に市営化され(昭和18年より中央区の所管となる)、昭和2年から無料となっている。
 自治体による渡しの管理が進む一方で、東京では関東大震災以後、相次いで鉄橋やコンクリート橋が架けられた。それに伴い、これまで活躍していた渡しが次々廃止された。多摩川では昭和17年までに6ヶ所が廃止され、隅田川でも昭和15年に勝鬨橋が架けられて「月島の渡し」がなくなった。渡しの受難が始まったのだ。

3.消える渡し

 渡しを橋に切り替える動きは、戦後になって全国的に加速した。表1は、戦後の国道・県道の渡船場数の推移をまとめたものだが、これを見ると、国道・県道の総渡船場数は昭和25年から45年までの20年間で1/4になった。トラックによる物資輸送の増加やマイカーの普及などによって道路網が整備され、架橋が進んだからだ。(表1)「佃の渡し」では、昭和34年に東京・晴海の国際見本市ができると、1日当たりの利用者は1万7千人に達した。当時、都心部と埋立地を結ぶ橋は1Km下流の勝鬨橋1本しかなく、ウナギのぼりの交通量をさばくためには、渡しを廃止してこの場所に新しい橋を建設するしか道はなかった。昭和39年8月27日に佃大橋が竣工すると、「佃の渡し」は廃止された。
 都道府県別のランキングに目を移すと、まず昭和25年に栃木県が1位となっている。当時、栃木県の鬼怒川、那珂川、渡良瀬川流域では毎年のように水害が発生し、橋や田畑を押し流した。そこで渡しが活躍したのだ。しかし、昭和20年代後半からダムや堰堤の建設が始まって治水が進むと、次々と橋が架けられるようになり、栃木の渡しは姿を消していった。昭和35年になると、岐阜県が1位に着く。岐阜には、木曽川、長良川、揖斐川の「木曽三川」があり、ここも昔から氾濫を繰り返した。岐阜の渡しは、高度成長期に入り堅牢で長大な橋が架けられるようになると、次第にその数を減らしていった。
 昭和63年に建設省(当時)は「第10次道路整備五箇年計画」を策定し、10年間で市町村道を含めて道路渡船を全廃する方針を示した。平成2年の渡船場数は14ヶ所と、5年前に比べて10ヶ所も減った。しかし、バブル崩壊後は「経済性」が重視され、平成10年以降、渡船場を廃止して橋を架ける動きは収まった。
 今日、自然とふれ合える場として渡しを見直そうという動きが広がっている。自治体では、地元の渡しをホームページなどで紹介し、観光資源として活用しようとしている。ネットで調べてみると、「矢切の渡し」以外にも身近な所に渡しがある。皆さんも一度近所の渡しを訪ねてみてはどうか。

矢切の渡し

[参考文献

『都史紀要35 近代東京の渡船と一銭蒸気』東京都 平成3年

森まゆみ、ジョルダン・サンド/文、尾崎一郎/写真『佃に渡しがあった』岩波書店 平成6年

『豊かさを支える道づくり 第10次道路整備五箇年計画のめざす道』建設省道路局編 昭和63年

『朝日新聞』昭和34年11月29日朝刊 8面]


2004年3月15日更新


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