第15回
小学校の卒業式は
「ツイストで踊りあかそう」! まさかネ
※ラジオ版ポップス少年黄金(狂)時代 絶賛放送中!
ラジオ版・ポップス少年黄金狂時代(60年代こだわりのバラード)
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第2回ラジオ版ポップス少年黄金(狂)時代〜前編
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第2回ラジオ版ポップス少年黄金(狂)時代〜後編
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誕生日会というのを小学校の低学年の頃からやっていた。小2の時に親友G藤君の誕生日に招待されたのが最初だったと思うが、彼の家に行って驚いた。女子が二人招待されているのだ。男は私だけ。奥手の私は、女の子と話すのができなかった。「誕生日会」をやる発想といい、そこにクラスメートの女子を連れてくることといいアメリカのホームドラマのようで、ちょっとしたカルチャー・ショックだった。これが世田谷のぼっちゃんの姿かと。何となく恥ずかしかったものの、それはそれで楽しかったと思う。何をして遊んだのか覚えていないけど。
まあその時はそれで良かったのだが、“お返し”の流儀があったのか今度は女の子T山さんの誕生日に同じ面子が呼ばれた。その次はもう一人のM下さんの誕生日会にも呼ばれた。照れくさいったらなかったな。3月28日生まれの私は一番最後に誕生日が来るのだが、家族の手前、女の子を自宅に呼ぶのは恥ずかしいから、ウチだけ女子抜きで他に男子を入れてやったような気がする。3年になってもG藤君はもう一度同じ面子でやった気がするが、今度は女子からのお誘いはなかった。その後、男同士数人で6年まで「誕生日会」は続いた。
私の誕生日はいつも春休み中なので、小6最後の会はすでに卒業した後だった。他の中学校に行ってしまう友人も含め6人呼んだ。そのうちの4人は成績がクラスのベスト4だった。私は6年間遊びっぱなしだったから、中学生になったら勉強して遅れを取り返そう、彼らに追いつこうと心に誓った。特に英語はスタートラインが同じだから絶対頑張ろうと思っていた。それはともかく誕生日会で何をやるかといえば、食事して、大抵トランプなどゲームをやり、ケーキに紅茶を出し、お開き、というようなコースだったと思う。レコードを掛けたりはしなかった。誰も洋楽のポップスなど聴いちゃいなかったし。
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男ばかりの誕生日会 チョーピンボケ写真は、1962年3月28日、私12歳の誕生日。
私を含め左側の4人はのちに何と同じ大学に通うことになる。
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ちょうどニール・セダカの「すてきな16才Happy Birthday Sweet Sixteen」(62年1月6位)がヒットしているころでもあったが、アメリカのTVドラマでは誕生日会を含めパーティやら特別の催し物がいっぱいあった。というか、番組の中で起こる彼らにとっての日常が、日本人の我々にとってはすべて特別なことが行われているという風に見えた。『うちのママは世界一』もそういった番組の一つだったが、その番組の中で本当に特別なことが起きた。娘役のメアリー(シェリー・フェブレー)の歌う「ジョニー・エンジェル」が大ヒットしてしまったのだ(62年4月1位)。この曲は当番組の挿入歌のような扱いになった。ドラマのなかでメアリーが緊張する面持ちで「ジョニー・エンジェル」を歌うのを母親(ドナ・リード)が娘よりも緊張しながら見守るというシーンなどもあり、非常に有効的なプロモーションになった。それを見ている我々も結構緊張してみていた気がする。知り合いの家庭の娘が急にスポットライトを浴びたという感じだった。
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「ジョニー・エンジェル」Johnny Angel
シェリー・フェブレー
いくらメイクを濃くしたからといってもこの写真シェリー・フェブレーじゃないよね。メアリー役で何年もテレビに出ているのになんで間違えたのだろうか。 |
娘の大ヒットの後ちょっとしてから、その弟役のポール・ピーターセンも歌手としてレコード・デビューし、「僕のパパMy Dad」がヒットした(63年1月6位)。二人ともコルピックス・レコードから発売されたのだが、彼らの前にこのレコード会社からジェームス・ダーレンの「恋も涙もさようなら」がヒットしたときに(61年12月3位)、シングル盤を買っていた。この曲はスネアのドラムロールからサーカスを思わせるメロディが続くイントロが印象的で、ドスの効いたヴォーカルも気持ちよく、一発で好きになってしまったのだ。もともと俳優でもあったジェームス・ダーレンが、コルピックスつながりだと思うのだが、いとこ役かなんかで『うちのママは世界一』に出演したことがあってビックリ興奮したことがあった。
それと買ってから気づいたのだが、「恋も涙もさようなら」のB面がマーセルズの「恋の傷あとHeartaches」(61年11月7位)だった。前に欲しかった「ブルー・ムーン」のマーセルズだったので、私たち兄弟にとって倍以上の価値のあるシングルとなった。ジェームス・ダーレンは続いて「恋も涙もさようなら」の完璧な二番煎じソング「冷たい女王様Her Royal Majesty」をヒットさせる(62年3月6位)が、歌手としてはそこまでで、後にTVドラマ『タイム・トンネル』の主役を演じ人気を博すことになる。
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「恋も涙もさようなら」Goodbye Cruel World
ジェームス・ダーレン
両A面的価値のあったシングル。昔のシングル盤はこんなうれしいカップリングがたまにあった。
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「恋の金メダル」Pin A Medal On Joey
ジェームス・ダーレン
この曲は63年3月に54位まで上った、平凡ではあるが軽快なポップス。 |
この62年というのは全世界的なツイスト・ブームがあったが、足の裏で煙草の火をもみ消すようにするだけでいいというツイストを我々が誕生日会や卒業式で踊ったりすることはなかった。小学生がやれるのは、せいぜいが「スイスイ・スーダラダッタ・スラスラ・スイスイスーイ」と植木等の例の動きをやる程度だ。踊らない人間にはツイスト・ナンバーは必要なかった。
ツイスト・ブームは何と言ってもチャビー・チェッカーに尽きる。発端となった「ザ・ツイスト」は60年9月に一度1位になったが、その時はダンスのツイストは一部の若者だけで一般的には流行らずに曲のヒットだけだった(それもアメリカだけで日本ではヒットしなかった)。62年1月に今度はダンスのツイスト・ブームが訪れたため同じ曲がまた1位になってしまうという椿事が起きた。チャビー・チェッカー人気はアメリカでは凄まじく、この曲のほかにもベスト20ヒットを12曲も放った。しかし「おいでよ、ツイストおどろうよ」って言っているだけの歌だから、ツイスト・ブームが終われば楽曲としての価値はなくなった。
その点、頑張ってツイストしまくりましょう的な体育会系のノリのチャビー・ナンバーとは違い、サム・クックの「ツイストで踊りあかそうTwistin’ The Night Away」(3月9位)は楽しさに満ち溢れた知的に?踊れそうな楽曲なのでブームが去ったあとも残った。アイズレー・ブラザーズの「ツイスト・アンド・シャウト」(8月17位)はそこそこだったが、ご存知ビートルズにカバーされてツイスト・ナンバーというよりはシャウト・ナンバーとして永遠のものとなった。
あとツイストのほかにもダンス・ナンバーとしてマッシュ・ポテト(ディー・ディー・シャープ「マッシュ・ポテト・タイム」5月2位)、ワツシ(オーロンズ「ザ・ワツシ」7月2位)、リンボ(チャビー・チェッカー「リンボ・ロック」12月2位)など、ダンス的にも楽曲的にも差異のない曲がたくさん生まれた。そんななかでダントツによかったのはリトル・エヴァの「ロコモーション」(8月1位)。汽車汽車シュッポシュッポの振りをするダンス・ナンバーだが、さすがG・ゴフィン/C・キング作だけあってダンス・ブームがすんでも楽曲は見事に残った。伊東ゆかりの日本語カバーもなかなか良かった。
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「マッシュ・ポテト・タイム」
園まり
62年8月に発売されたカバー・シングル。初期のスパーク?している頃の園まり。
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「サウス・ストリート」South Street
ジ・オーロンズ
「ザ・ワツシ」をヒットさせたオーロンズ、63年4月に3位の大ヒットとなった曲。 |
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「ロコモーション」The Loco-Motion
リトル・エヴァ
大ヒットするために生まれてきたような作りの曲。当時夫婦だったゴフィン/キングのベビーシッターだったエヴァにデモテープ用に歌わせたのが発端。さらに74年にグランド・ファンクがカバーし全米1位になる。 |
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「私のものよ」Keep Your Hands Off My Baby
リトル・エヴァ
第2弾シングルのこの曲ももちろんG・ゴフィン/C・キング作で62年12月に12位まで上った。 |
ジョーイ・ディーとスターライターズの「ペパーミント・ツイスト」(1月1位)を、日本では「ツイスト・NO1」というタイトルに変え妖しいツイストを踊った藤木孝が“ツイスト男”と呼称されるが、ツイスト以前から彼は「♪スキスキスキのキッス」と歌う「24,000のキッス」(アドレアーノ・チェレンターノのカバー)や、右手の指を左肩に添え波打たせるような手つきで動かし(元祖夏木マリか)「♪アーダムとイーブの物語」と歌う「アダムとイブ」(ポール・アンカのカバー)などで妖しさ(怪しさ?)いっぱいの強烈な個性を出していた。ツイストを踊っても体が軟体動物のようにくねくねしていたため我々から見ると“キモワル系”に思えたが、何故か『シャボン玉ホリディ』ではレギュラーで出てたのが不思議だった(ナベプロだったからだろうが)。
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「ツイスト・NO1」
藤木孝
この曲の次はエルヴィスの「ロカ・フラ・ベイビー」のカバーをツイスト化して「ツイスト・フラ・ベイビー」と改題しシングルに。
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「ママのツイスト」
藤木孝
締まった筋肉質の体に全身黒づくめのピッタリした衣裳でくねくねと踊るツイストはあまり“お茶の間向き”ではなかった。 |
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「ツイストUSA」
清原タケシ
取ってつけたような“しゃっくり唱法”がいまいちサマになっていなかった歌手。チャビー・チェッカー「Twistin’ U.S.A.」(61年11月68位)のカバー。 |
いずれにしてもツイストを踊る日本人はあまりサマになっていなかったような気がする。『ザ・ヒットパレード』や『スパーク・ショー』などで大人のツイストを見せた“踊る指揮者”ことスマイリー小原は、ドドンパ、スクスクのころから踊りながら指揮していた。ちょっと画面に出すぎの感があったが…。ドドンパというのは日本産の“ニューリズム”として出現したが、四拍子の二拍目に強意が来るだけの(その時片膝を折る)“ずっこけリズム”だった。ポップスというよりは歌謡曲で、渡辺マリの「東京ドドンパ娘」がバカ売れした。C&W出身の北原謙二の「若い二人」などもドドンパのリズムだった。「お座敷小唄」もドドンパだ。ドドンパにつづいてニューリズムとして喧伝されたのが“スクスク”で、スマイリー小原がザ・ピーナッツと一緒にTVで「ワン・ツー・スリー・フォー・ファイブ・シクス・スクスク」と妙なステップを教えていたが、およそ流行りそうな感じはしなかった。
当時日本人で一番ダンスがサマになっていたのは、ツイストのブームが終わりかけの頃『スパーク・ショー』に出るようになった尾藤イサオだ。この番組の司会の三人、中尾ミエ、伊東ゆかり、園まりは“スパーク三人娘”と呼ばれたが、尾藤は“スパーク・ボーイ”と呼ばれた。「監獄ロック」などを歌っても歌もステップも当時としてはダントツにロックンロールしていてカッコよかった。声がハスキーなのでやや声量に欠けるのが惜しかった。でもキンキン声で「のっぽのサリー」をがなり歌い終わると「サンキュー」とスルメのように頭と手首を垂れる自称ロックンローラーがよく一緒に出ていたが、尾藤の比ではなかった。尾藤イサオは意外だが64年までレコードが発売されなかった。
元祖ツイスト男のチャビー・チェッカーは翌63年、来日してテレビでツイストを踊ってみせたが、名前の通り太っちょな(チャビー)だけでおよそ魅力に欠けていた。
※印 画像提供…諸君征三郎さん
2008年11月12日更新
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