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「食料品店」タイトル

明治ソース

第3回「食品の包装資材の変化から見る食料品店」の巻

日曜研究家串間努



 都会では、街の食料品屋さんがどんどん減っていく。スーパーの台頭なんて問題ではない。コンビニの侵食だ。もはやセルフサービスでない個人商店なんてのは、現代人の生活スタイルには合わないのだ。
 個人商店に入ったら、「はい、いらっしゃい」と店主がでてくる。何か買わないといけない気持ちになる。だが買うものがない。種類が少なくて高い。賞味期限の日付も古いことが多い。おばちゃんはお札や袋をツバで湿した指でさわる。
明治の缶詰 現代人は、すべて自分のことは自分で決める。テレビの普及で商品コマーシャルが特徴を連呼する時代である、食べたい缶詰や飲みたい飲料はすでに決まっている。好みは家庭レベルから個人レベルになった。個人商店は品揃えが不完全なことが多い。現代人は、病院の売店や山小屋など、商品の仕入れに制限があるところでは納得して、好みでないものや、定価での販売物を買うが、街の自由な空間では選択肢が豊富であるから、最寄り品はコンビニで、買い回り品は郊外量販店でディスカウント価格のものを買う。コンビニは高価格だが新鮮で利便性がある。郊外量販店は安いし車社会には大量購入できて便利だ。街の個人商店のメリットはなんだ? そう考えると、商店街や近所づきあいでの義理人情でしか売買関係がなりたたない。

昔の商店

津軽三年味噌

 30歳以下の都会生まれの読者に昔の商店がどんなものであったか、まずご説明したい。
 昔は「通い帳」という帳面(帳簿)があった。主に酒屋など売り手が買い手に発行する売り掛け帳面のことだ。よく「飲み屋のツケ」というでしょ。あれは通い帳に帳面付け(記入すること)して、現金決済しないことから来ているのだろう。飲食店の前に、信楽焼でできた福を招くといわれる豆タヌキの像があるが、あれも酒とっくりと通い帳をもっている。通い帳は江戸時代から存在するのだ。サラリーマンは毎月決まった額を給料として貰っている俸給生活者である。
 しかし、いまでこそたくさんサラリーマンがいるが、ついこの間まで農村社会であった日本では、農家は毎月収穫があって収入があるわけではないし、日銭があるのは現金売りの商店くらいであったのだ。稲が実るまで、野菜ができるまで、農家では現金収入がない。そこで日ごろの買い物は通い帳につけておいて、盆暮れの年2回、あるいは収穫した農産物を集荷して代金をもらったとき(おそらくこれも盆暮れの支払いだったか?)に買い掛け代金を決済するのだ。地域社会が堅固であったから、地元の商店が、地元の市民に信用で売ってもなにも恐れることはない(高額商品でも同様に月賦や、前払い式割賦販売<これは商品は後に渡す>などで信用販売していた。自動振替だとかATMもない時代、人件費は安かったから、NHKでもミシンのセールスでも簡易保険でもみな、集金人がカバンを下げて集金に来たのだ)。

センザン醤油

 スーパーが発展するまでは、ポリエチレンの袋があるのがせいぜいで、レジ袋などなく、八百屋さんは、新聞紙をのりで貼って作った袋を使っていた。これは自家あるいは内職業者が作ったものだった。

 卵は透明な保護カップに10個パックで売っているものではなかった。そば殻だったか、ワラを刻んだクッションを敷き詰めたリンゴ箱の中にバラで入っていて、茶色い卵を選んで、繭のような茶色い箱に入れてくれた。納豆はもう、全部ワラにくるまれており、発泡スチロールやカップ入り納豆というものはなかった。

 刺し身だけは、一番安い発泡スチロールの皿に盛ってくれたが(昭和40年代)、赤い硫酸紙でくるんで輪ゴムで止めるだけ。すでに盛りつけてあるのではなく、刺し身用の短冊を指差して「3人前」と頼むと刺し身を切る部屋に主人が入っていって、刺し身包丁でおろしてくれる。サバとかイワシなどの生魚は、新聞紙でくるむだけ。家に帰ると湿っていた。コロッケを5個買ったときは、長い竹の皮か、ロウ紙に盛って、右・左と折り畳み、黄緑の硫酸紙でくるんでくれた。発泡スチロールに惣菜が入ってラップをかけてあるものなんてどこにもなかった。

 買ったものは藤のツルやビニールで編んだ買い物籠に入れる。毎日買い物に行く主婦が多いからそんなに買い物籠は大きくなくてもよいのだ。第一、たくさん買っても入れておく冷蔵庫がない(冷蔵庫を持っていたとしてもいまよりずっと小さかった)。石油とか、ちり紙とか大きくてかさばるものは近所なので配達してくれる。

三ツ矢ソース 人件費が安くて、お手伝いさんを中流家庭のサラリーマンでも雇用できる時代(昭和30年代初頭)は、酒屋や食料品屋の従業員は注文を取りにきたものである。「サザエさん」に出てくる「三河屋酒店」の三平さんがいっぱいいたのである。だから酒屋ルートで販売できるリボンシトロン(サッポロビール)、三ツ矢サイダー(朝日麦酒)、キリンレモン(麒麟麦酒)は、ケースで配達・回収すればいいので、これらの自販機はいまでも設置台数が少ないように、自販機ルートの開発が遅れ、酒屋ルートを持たないコーラ会社の自販機に席捲されるのである(牛乳宅配ルートを持っていた明治・森永なども同じ。国内清涼飲料は流通ルートの機械化の立ち後れで海外資本の後塵を拝することになったと思う)。

包装資材の変化

ヤマサ醤油

 味噌や醤油、ソースや砂糖などは、昔はおおむね計り売りであった。それらは地場産業で作られ、地元で好みの味が消費された。
 もちろん一升ビンに入ったものもあったが、戦争のために容器が不足したので、瓶やカメを持って、都度買いに行くようになった部分もあるのである。貧乏な家は酒を1合単位で買って、店の人に面倒がられた(いまなら、ガソリンスタンドに原付バイクで乗りつけ、ガソリン1リットルだけいれてもらうようなもの)。
 そして、食品の売り方が、ビニール、ポリエチレンなどの登場(コストが安価になったということ)で、個別包装が主流になったことが個人商店をくじき、スーパーの台頭を助けた部分がある。スーパーは人件費を下げるためセルフサービスなので、従業員はレジだけにいる。販売員は、商品の陳列と発注・補充を行うだけで、いちいち味噌や醤油を計り売りすることはないのだ。

マスヤ味噌

 たとえば家庭用砂糖の小袋詰が始まったのが昭和27年である。
 日新精糖がテーブルシュガー(グラニュー糖)として日本で初めて、家庭用の砂糖の小袋詰を無色透明ポリエチレン使用で行ったのだ(グラニュー糖3ポンド入(1.3kg)。上白糖1キロの袋詰めは同社が昭和32年から。吸湿性の問題からか、当初はラミネート貼りの紙袋であった)。砂糖包装のポリ袋使用は世界初だった。それまでは小売店の店頭での量り売りであった。消費者側のメーカーやブランドへの意識も低く、品質のよい製品も悪いのも同じようにみられていた。が、やがて、店頭での管理が十分なため異物が混入したり、吸湿のクレーム、増量(ぶどう糖)混入などが社会問題化してきた。
 そこで、少量ごとの袋詰めが登場し、下記の問題を解決することになる。そのため量り売りから小袋詰への転換はスムーズに早く進んだ。時代背景として店員不足の小売店に歓迎されたこと、セルフサービス式スーパーマーケットが増えてきていたことなどが挙げられる。

 メーカーにとってのメリット
  ・社名とブランドを小袋に印刷することでそれらが浸透する
  ・品質と量目をメーカーが責任を持つことで、消費者から信頼性が得られる
  ・宣伝効果による販売促進が可能

 小売店にとってのメリット
  ・量りすぎによる損失、不足による不評がない
  ・異物混入事故がない
  ・量る人手や、時間が節約できる

 消費者にとってのメリット
  ・衛生的
  ・量もいつも一定で安心
  ・小売店で待たされない

マルダイ味噌

 味噌の場合は、昭和38年、樽の高騰から樽詰め味噌から段ボールへと移行され、これを契機にポリ小袋詰も増えたという(計り売りでないカートン詰めは昭和29年からあることはある)。輸送にも便利で、竹屋味噌が最初に行って売り上げがよかったため、昭和39年までに味噌の1割は小袋詰めに移行した。
 なお、段ボールに転換したのは、敗戦後の復興のため木材に大量の需要があり、伐採のし過ぎでハゲ山となって洪水が起こるようになったのでみだりに伐採してはいけないと森林法が改正された。そのため、木箱が高騰し、転換の研究が始まって昭和30年代にだんだんとみかんやリンゴ箱などの青果モノから転換していったという。
 消費者の反応は、年配者は量り売りの方が安くて新鮮と思い、若い主婦には衛生的で便利だとうけた。酒屋以外のルートでも味噌を販売することが可能になり、スーパーのセルフサービスにもマッチした。

キッコーマン味噌

 醤油は昭和35年頃から「量り売り」から「ビン詰入り」に移行してきた。業界紙の調査によれば、当時、銘柄を指定して買う客は、1位キッコーマン、2位ヤマサ、3位日ヒゲタとなっているが、量り売りの客は銘柄の指定にこだわってはいない。すでに通い帳で月払いする割合も減少してきており、現金でビン詰めを買うという購入方法が増えてきはじめた。当時は大家族制度はまだ残っていたので、缶では18リットル入りが圧倒的に売れ、ビンでは2リットルが売れていたという。そして、核家族化が進んだ昭和43年に1リットル入りプラスチックボトルが発売され、その後、スーパーで目玉商品化されることになるのだった。

イカリソース

 量り売りが生んだ面白いエピソードがある。
 戦後、濃厚ソースは食糧の統制価格に縛られず、自由価格で販売できたので、大いに生産されだし関東で「フルーツソース」としてもてはやされていた(ウスターは「野菜ソース」といったらしい)。そして栄養価が高いとんかつに「フルーツソース」が多用されるので、「とんかつソース」とよばれるようになり、全国に普及していったという。
 この「とんかつソース」と「ウスターソース」を混ぜて売ったお店があり(たぶん、とんかつソース増量のための混ぜモノとして)、これが受けていることを知った関東のメーカーが「中濃ソース」として売り出して定着したという。中濃ソースはわが国独自のものなのである。

 包装資材の変化が流通にまで影響を与え、ひいては私たちの食生活、買い物スタイルに変化を与えているのである。

書きおろし


2003年10月30日更新
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