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「昭和のライフ」タイトル

アカデミア青木

「台湾バナナ」

第19回 「台湾バナナ」は復活するか?


「台湾バナナ」 小生が小学生の頃、バナナが給食に出ると「チキータ」とか「ドール」といったラベルの付いたものを皆で取り合った記憶がある。(運良く手に入れた子は、なぜかそのラベルを頬や額に貼って得々としていた)当時のバナナはエクアドルやフィリピンのものだったが、それより前の昭和30年代後半までは、日本で「バナナ」といったら「台湾バナナ」を指していた。今回の昭和のライフでは、この台湾バナナの盛衰について取り上げる。

1.台湾バナナ登場

「台湾バナナ」 バナナが日本に初めて輸入されたのは、明治36年。台湾北端の基隆にいた都島金次郎が現地のバナナを竹製の魚籠7カゴに詰めて送ったのが、その始まりという。その後、品種を改良して日本人の嗜好に合うようにし、冬のミカンが終わって夏のスイカが始まるまでの「果実の端境期」に集中的に出荷した結果、台湾バナナは日本人とって身近な果物となった。当時台湾を支配していた台湾総督府も、樟脳や木材と並んでバナナの生産を奨励した。大正13年には農商務省に掛け合って半官半民の「台湾青果株式会社」を設立して、それまで複雑だったバナナの流通を整備している。こうした甲斐もあって、昭和12年に台湾バナナの出荷は戦前のピークを迎えた。

 しかし、第二次大戦が始まると貨物船が軍に徴用されて出荷は減少、昭和19年の初めからは戦況の悪化によって、日本内地への積み出しは不可能となってしまった。

2.バナナのたたき売り

「台湾バナナ」 戦前のバナナの話題で欠かせないのが、「バナナのたたき売り」。巧みな話術を使ってバナナを房単位で次々と売っていくこの商売は、今日、レトロ関係のイベントでよく見掛けるが、そもそもは明治41年に門司港(北九州市)の桟橋通りで生まれたものだった。

たたき売り

バナナのたたき売り 谷脇素文(1878-1946)画
[『川柳漫画 いのちの洗濯』 
大日本雄弁会講談社 昭和5年より]

 普通、バナナは青い未成熟の状態で日本に運ばれ、港の加工室の中で追加熟成されて「黄色い甘いバナナ」になる。ところが、輸送中にバナナが自然にむれて黄色く仕上がることがあり、業者はこれを「籠熟(かごうれ)バナナ」とか「アオブク」と呼んで嫌った。また、加工時に不良品が出ることもあり、「バナナのたたき売り」師はこういった二級品のバナナの引き取って商売のネタとした。
 たたき売りは門司から全国へと広がり、各地で人気を博したが、戦時中から戦後の一時期にかけてバナナの入手が難しくなって、中断の憂き目にあった。民間輸入の再開とともにたたき売りも復活するが、高度成長期に入ってスーパーマーケットが発達していくと、二級品はそちらに回るようになり、たたき売り師はその役目を終えた。

3.「高い」台湾バナナ

「台湾バナナ」 さて、話は前後するが、台湾バナナの輸入は昭和23、4年頃、まずGHQ向けに再開された。民間貿易による輸入は25年7月に復活するが、外貨難から輸入割当制度が採用され、輸入量が制限された。一方、台湾バナナに対する人気は戦後も旺盛だったので、供給難から価格は高水準となった。昭和25年末の新聞記事(昭和25年12月13日付『朝日新聞』)を見ると、二級品のたたき売りのバナナで1房100円、1本当たり10円もした。同時期のアンパン(木村屋総本店製)は1個10円だから、これに比べるとかなり割高だ。
 その傾向は昭和30年代に入っても続いた。昭和32年における台湾バナナの輸入価格は1カゴ(45Kg)2700円。これに関税・荷役料が加わって3400円。更に昭和31年に制定された『特定物資輸入臨時措置法』により2862円が賦課されて、計6300円。この後、追熟加工料、業者の手数料、問屋や小売店のもうけが加わって、市場に出るころには100匁(375g)当たり200円(45kgで24000円)となった。(昭和32年7月27日付『朝日新聞』朝刊4面「外貨と生活(11)」より。この頃のアンパンの価格は1個12円)このように高価だったバナナは、まずホテルや料亭などに流れ、庶民が手にできたのは品傷みを起こして安くなった二級品が中心だった。当時、一級品のバナナが病人のお見舞い、贈答向けに使われたのもうなづける。

4.台風&コレラ禍、中南米産の参入

「台湾バナナ」 昭和30年代後半になると台湾バナナの地位を脅かす事件が続発した。通産省はフィリピンや中南米諸国からの売り込み攻勢を受けて、35年6月に各国からの試験輸入を行うことを発表した。そしてその年の夏、台風の大きな被害を受けて、台湾バナナの日本への出荷は1/3に減った。通産省は国内価格の高騰を鎮めるために、各国からバナナを本格的に輸入することを決断した。翌春、エクアドルからのバナナ専用船が横浜に到着。バナナの戦国時代が開幕した。
 37年7月には台湾でコレラが流行して、政府は台湾からのバナナの輸入を3ヶ月にわたって禁止した。中南米や南太平洋産のバナナを扱う業者は”安全性”を前面に押し立てて、台湾バナナの牙城の切り崩しに奔走した。38年4月からはバナナの輸入が自由化されたが、この年の年間輸入量を見るとエクアドル産のシェアは8割に迫り、台湾産は2割と大きく落ち込んだ。

 しかし、エクアドル産の天下は長くは続かなかった。市場価格は台湾産の8割と安かったが、長距離輸送の影響などもあって、甘味や風味では台湾産に劣っていた。コレラのショックが癒えるつれて台湾バナナは巻き返し、40年から42年にかけての輸入量シェアは8割を超えた。

5.フィリピン産に圧倒される

「台湾バナナ」 中南米産の攻勢に勝利した台湾バナナであったが、ほどなく新手が現れた。フィリピン産バナナだ。中南米でバナナを生産していた米国系企業が日本の総合商社と提携して、フィリピンでの大規模生産を開始したのだ。安価で、しかも日本に近いため風味は損なわれず、これが台湾バナナに大打撃を与えた。昭和44年に2.9%だったフィリピン産バナナの輸入量シェアは、短期間で急成長を遂げて、48年には47.5%となり輸入バナナのトップとなった。シェアは更に伸び、49年以降今日まで7割超の水準を維持し続けている。「台湾バナナの時代」は終わり、「フィリピンバナナの時代」が始まったのだ。
 だが皮肉なことに、市場の主役が変わる頃から日本人の「バナナ離れ」が起こり始めた。国民1人当たりの年間消費量は10Kgに達し、飽きられ出したのだ。総輸入量は昭和47年の106万トンをピークに減少に転じ、この後しばらく低迷が続くことになった。

6.グルメ志向で復活?

「台湾バナナ」 平成に入るとバナナは健康食品として見直され、輸入は再び増加に転じた。また、台湾、エクアドル、フィリピン、中国以外からも輸入する動きが見られ、現在、産地間の競争が活発化している。競争の激化によって価格の低下をおそれた既存の産地では、品質を向上させることによって、新興産地との差別化を図ろうとしている。バナナの糖度を増加させるために、昼夜の寒暖差の激しい高地で栽培をしたり(「高原バナナ」)、味に定評のある台湾バナナと同系統のバナナを導入したりと、試行錯誤が続けられている。
 こうした中、大規模なショッピングセンターではバナナの品揃えを充実させるために、「昔懐かしい味」と銘打って、台湾バナナを売場に置いて好評を得ている。昨年の輸入量シェアは3.4%と往時の面影はないが、台湾バナナを知らない若い世代を対象に地道に販促活動を展開すれば、輸入量は今後増えていくのではないだろうか。彼等はグルメ志向だし、なにより台湾バナナは日本人向けに改良されてきた品種なのだから。

[参考文献

高木一也『バナナ輸入沿革史』日本バナナ輸入組合 昭和42年

高木一也『続・バナナ輸入沿革史』日本バナナ輸入組合 昭和50年

北園忠治『香具師はつらいよ』葦書房 平成2年

週刊朝日編『値段の明治・大正・昭和 風俗史』朝日新聞社 昭和56年]


2004年5月25日更新


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