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「ポップス少年」タイトル

リトル・R・オノ

第17回
はがゆいほどの違いがあった
日本とアメリカのヒット・チャート

※ラジオ版ポップス少年黄金(狂)時代  絶賛放送中!

ラジオ版・ポップス少年黄金狂時代(60年代こだわりのバラード)
http://www.maboroshi-ch.com/hoso/item-29.html

第2回ラジオ版ポップス少年黄金(狂)時代〜前編
http://www.maboroshi-ch.com/hoso/item-26338.html

第2回ラジオ版ポップス少年黄金(狂)時代〜後編
http://www.maboroshi-ch.com/hoso/item-26424.html


秋の大収穫祭〜ラジオ版ポップス少年・スペシャル〜前編
http://www.maboroshi-ch.com/hoso/item-28412.html


秋の大収穫祭〜ラジオ版ポップス少年・スペシャル〜後編
http://www.maboroshi-ch.com/hoso/item-29164.html



 中学1年生になった1962年の春、日本でどんな曲がヒットしていたのかを文化放送の『ユア・ヒットパレード』(62年4月29日放送)で見ると、1位「シェーン」(サウンドトラック)、2位「トゥナイト」(サウンドトラック)、3位「かわいいベイビー」(コニー・フランシス)、4位「ブルー・ハワイ」(エルヴィス・プレスリー)、5位「ローマの恋」(サウンドトラック)、6位「駅馬車」(サウンドトラック)、7位「大人になりたい」(コニー・フランシス)、8位「霧の中のジョニー」(ジョン・レイトン)、9位「ロッカ・フラ・ベイビー」(エルヴィス・プレスリー)、10位「ブルー・ボビー・ソックス」(パット・ブーン)とある。ちなみに11位「ライオンはねている」(トーケンズ)、12位「ルイジアナ・ママ」(ジーン・ピットニー)と続く。
 このなかでアメリカでヒットした曲は「ライオンはねているThe Lion Sleeps Tonight」(61年12月1位)だけだ。
 同じ時期のアメリカン・チャートを見ると(62年5月7日のビルボード)、1位「ジョニー・エンジェル」(シェリー・フェブレー)、2位「グッド・ラック・チャーム」(エルヴィス・プレスリー)、3位「スロー・ツイスト」(チャビー・チェッカー)、4位「マッシュ・ポテト・タイム」(ディー・ディー・シャープ)、5位「モスコーの夜はふけて」(ケニー・ボール)、6位「ヤング・ワールド」(リッキー・ネルソン)、7位「ラブ・レター」(ケティ・レスター)、8位「泣かせないでね」(コニー・フランシス)、9位「ヘイ・ベイビー」(ブルース・チャンネル)、10位「ラヴァー・プリーズ」(クライド・マクファター)という順位。
 このアメリカン・チャートのなかで日本でヒットしたのは「ジョニー・エンジェル」と「グッド・ラック・チャーム」「モスコーの夜はふけて」「ヤング・ワールド」ぐらいだ。
 私たち兄弟は土曜日の夜FENの『トップ20』だけは一緒に聴いていたので、日米のヒット曲の違いをあーだこーだといつも話し合っていた。学校ではポップスを語り合う人間は相変わらずいなかったから、兄がいなかったらここまでポップス好きになったかわからない。   

中一の遠足

中一の遠足
 1962年5月頃でしょうか。一緒にいる友人の名前を一人として思い出せないでいます、今。
 何を話題にしているのか、ポップスじゃないことは確か。でもみんな楽しそうで、とても健全な中学生に見えますね。私の弁当は手にしている太巻きと、あとは何だったか、多分シンプルに稲荷寿司かな。

  『ユア・ヒットパレード』はもともと映画音楽が強かったので他の洋楽番組と比べると偏りがあり、ここでも映画のサウンドトラック盤が4曲も入っている。これらの曲はもちろんアメリカのチャートには入っていない曲だ。というか、『シェーン』(53年)や『駅馬車』(39年)などの古い映画の主題歌がヒットしているのは、この頃ちょうどリバイバル上映していたからだ。何を隠そう、私も二本ともこの頃見た。
 ジョン・フォード作品ジョン・ウェイン主演の『駅馬車』を観にいったときのことはよく憶えている。私の後ろの席に5歳くらいの外国人の子供が座っていて、私が普通に座っていると途中で私の頭を叩いて「見えない」(英語だからよく分かんなかったが多分そうだろう)と言うのだ。そして上映中に何度も「リンゴー、リンゴー、ペラペラ・ペラペラ」とジョン・ウェイン扮するリンゴ・キッドに向かってなにやら叫んでいる。外人コンプレックスに凝り固まった私は情けないことに椅子に深々と身を沈め身じろぎもせずじっとしているしかなかった。映画にはまったく集中できなかった。カネ返して欲しい。あの坊主め。
 2位の「トゥナイト」はもちろん『ウエスト・サイド物語』の主題歌だが、この頃はまだ映画を見ていなかった。長兄が映画のサントラ盤LPを買ったので、彼がいない時に何度も聴いた。テレビやラジオでもこのミュージカル映画のことを大絶賛していた。私は半年遅れで映画を観に行くのだが、冒頭の“指パッチン”のシーンで不良たちのカッコ良さにすっかり魅せられてしまった。世間では(プエルトリコ系のシャーク団のボスに扮した)ジョージ・チャキリスに人気が集中していたが、私には敵対するジェット団のボス、運動神経抜群のラス・タンブリンの身のこなしのほうがカッコよく映った。喧嘩のシーンではつい力が入った。登場人物それぞれの“今夜”への思いを歌う組曲「トゥナイト」の迫力あるアレンジには映像ともどもしびれた。

『ウエスト・サイド物語』West Side Story

『ウエスト・サイド物語』 West Side Story
サウンドトラック

 現代版ロミオ&ジュリエットを演じた主役のリチャード・ベイマーとナタリー・ウッドがジャケットのサントラ盤。「トゥナイト」以外にもレナード・バーンスタイン作による音楽は、「マリア」、「アメリカ」(リタ・モレノが踊りながら歌った)、「アイ・フィール・プリティ」、「クール」(これを歌い踊るシーンが好きだったなあ)、「サムホエア」など名曲揃い。

  5位の「ローマの恋」も同タイトルの映画の主題曲。小悪魔的な魅力がたまらなかったミレーヌ・ドモンジョが出演したイタリア映画。
 7位のコニー・フランシスは日米ともにチャートに入っているが、曲がまったく違っている。これ以外でも彼女の曲は日米でヒットに相違があった。普通アメリカでヒットしてから日本でヒットするまでにタイムラグはあるにせよ、「かわいいベイビー」は日本だけのヒット曲で、「泣かせないでねDon`t Break The Heart That Loves You」はアメリカでは1位になるほどヒットしたが日本ではB面の「夢のデイト」がA面になり、「ボーイ・ハント」の次にヒットする。逆に「大人になりたい」はアメリカでは「あなたと二人でTogether」(61年6位)のB面だった。 「かわいいベイビー」や「大人になりたい」を日本語で歌ったためにその舌足らずなところがかえって魅力となり、コニー・フランシスは日本人にとって特別のポップ・シンガーになる。
 私は外国人歌手が日本語で歌うのは嫌いだった。外国人がその国の言葉で我々の知らない新しい音楽を歌っているのが好きなのだから、わざわざ日本語にして歌いなおさなくてもいいのに。それじゃあ日本の音楽に近づいてしまうだけじゃないか、と思っていた。当時の日本の音楽関係者の間では、所詮日本人には外国の歌は理解できないからという解釈があったのかもしれない。だから日本語カバーを日本人に歌わせ、外国曲をヒットさせる。その日本語カバー曲を日本人じゃなく外国人に歌わせれば、理解しにくい外国語のバージョンより売れるのではないかというようなことだったのだろう。たしかに歌っている内容が分かったほうが歌の理解にはつながる。でもこの頃の歌はさしたる内容があったわけではないので、意味が分からないほうが底の浅さが現れない分却って良かったとも言えなくもない。
「♪Too many rule, too many rule 早く大人になりたい」と歌っているのを聴いて、「トゥ・メリー・ルー〜」とずっと思っていたほどだったから、意味など関係なかったのだ。リッキー・ネルソンの「ハロー・メリー・ルー」がヒットしたばかりだから私の耳にはそう聴こえて当たり前なのだ。
 外国人による日本語カバーはその後、ブレンダ・リーやリトル・ペギー・マーチやジョニー・ティロットソンなどに歌わせることになるが、外国曲はまだしも日本人の手による楽曲を日本語で歌う日には当事者たちは屈辱じゃないのかと不思議だった。でもあのビートルズですら世界戦略のためにドイツ人向けに「Komm, Gib Mir Deine Hand」(I Want To Hold Your Hand)と「Sie Liebt Dich」(She Loves You)を出したぐらいだったから、ちょっと落ち目のアメリカ人アーティストならなおさら「日本語で歌ってもアタリマエ」の感覚だったのかもしれない。旬を過ぎて本国では使えなくなった有名サッカー選手がJリーガーになったときのような感じか。
 コニー・フランシスのおかげで日本人歌手によるカバー・ポップスも全盛期を迎える。同じ曲をいろんな歌手がカバーしたが、代表的なのは「かわいいベイビー」が中尾ミエ、「大人になりたい」は伊東ゆかり、そして「バケイション」や「想い出の冬休み」などそのほかの有名曲は弘田三枝子がさらっていった。他にも後藤久美子のような幼児や、青山ミチのような元祖ヤンキー娘のようなのも出てきた。

「ボビーに首ったけ」

「ボビーに首ったけ」
後藤久美子

 史上最年少のジャズ・シンガーというふれこみでデビュー。そのシングル「大人になりたい/かわいいベイビー」というカップリングは正に彼女向きのテーマ。でもマーシー・ブレインの「ボビーに首ったけ」のカバーはいくらなんでもいただけない。特に可愛かったわけでもないのに「何でこんな子に歌わせるのだろう」と不思議だった。


「ヴァケイション」B面

「ヴァケイション」 B面
青山ミチ

 米軍兵と日本人女性の間に生まれた、いわゆる“混血児歌手”。
この曲でデビュー。当時の広告に「強烈なパンチ!」とあったが、そのパンチ力もさすがの弘田三枝子には及ばなかった。青山ミチは何度か失踪事件があったりもして、不良ぽさが滲み出ていた。

  エルヴィス・プレスリーはこの頃はもう完璧に映画のためのシンガーになっていたため、映画『ブルー・ハワイ』の中からも何曲かをヒットさせていたが、「ロッカ・フラ・ベイビー」は本国では「好きにならずにいられない」(62年2月2位)のB面であり、映画の主題歌「ブルー・ハワイ」はアメリカではシングル・カットされていなくて日本だけのヒット曲だ。映画がらみじゃない曲「グッド・ラック・チャーム」は「ジョニー・エンジェル」の後を受けてエルヴィス最後の全米ナンバー・ワン・ソングとなる。日本では少し遅れてからヒットを飛ばす。
 同時にエルヴィス曲の日本語カバーも盛んになり、「ロッカ・フラ・ヘイビー/ブルー・ハワイ」でデビューし、第2弾が「グッド・ラック・チャーム/好きにならずにいられない」という、ほりまさゆきが新しく“和製プレスリー”として登場したり、変りダネとしては12歳の梅木マリが「可愛いグッド・ラック・チャーム」というタイトルに変えてエルヴィスをカバーした。
 パット・ブーンの「ブルー・ボビー・ソックス(悲しき女学生)」は日本だけのヒット。イギリスの俳優兼歌手ジョン・レイトンの「霧の中のジョニー」は英国では1位を記録したが、アメリカではヒットしていない。日本でも克美しげるの日本語カバーとともにヒットした。ジョー・ミークというプロデューサーが制作した哀愁帯びたこの音源は、アメリカン・ポップス・マニアの大滝詠一にも影響を与えたらしく、「さらばシベリア鉄道」ではすっかりジョー・ミークになりきってしまっている。ジョー・ミークはその後すぐにトーネイドーズのインスト「テルスター」を英米両国で1位にしたり(62年8月英1位、同年12月米1位)、「ハヴ・アイ・ザ・ライト」をはじめとするハニーカムズなどもプロデュースするが、67年に猟銃自殺してしまう。
「ライオンは寝ている」はただ「ジャングルで今夜もライオンは寝ている」と歌うだけののんびりとした曲だが、日米両国で大ヒットした。

「ブルー・ボビー・ソックス(悲しき女学生)」Blue Bobby Socks

「ブルー・ボビー・ソックス(悲しき女学生)」 Blue Bobby Socks
パット・ブーン

 “ボビー・ソックス”とはアメリカの女子高生のトレードマークである白いクルーソックスのこと。つまり邦題通りの“ブルーな女学生”ということ。
B面「燃ゆる恋のボレロ」の原題を見ると、何とシレルズの「Will You Love Me Tomorrow」のカバー?


「悲しき女学生」

「悲しき女学生」
竹越ひろ子

 今の時代ならいざ知らずおよそ女学生らしからぬこの人、A面が松尾和子なことでお分かりのように彼女もクラブ歌手だった。「東京流れ者」「カスバの女」など歌謡曲でヒットを放った。


「霧の中のジョニー」Johnny Remember Me

「霧の中のジョニー」 Johnny Remember Me
ジョン・レイトン

 日本ではこの曲の次に「霧の中のロンリーシティ」もヒットした。本国のイギリスでは他にもたくさんヒット曲を出した。


「霧の中のジョニー」

「霧の中のジョニー」
克美しげる

 この曲でデビュー。「霧の中のロンリーシティ」ももちろんカバーし、当初は洋楽のカバーが多かったが、「さすらい」のヒットから歌謡曲歌手になった。カバーも歌謡曲も上手かったのに残念な人生を送ることになってしまいましたね。

 アメリカン・チャートのほうでは3、4、7、8、9、10位は日本でヒットしていない、あるいは発売すらされていない。“ツイスト男”のわりに腹回りがメタボっていたチャビー・チェッカーは前々回にも書いたが、何故それほど売れるのかというほどアメリカではヒット曲が多かった。映画『アメリカン・グラフィティ』は62年の設定なので当時の雰囲気を知ることができるが、なにかといえばパーティやって踊るし、ジュークボックスには必ず入っていただろうし。『アメリカン・バンド・スタンド』などのテレビのダンス番組に出たいがために練習用としても買われたのじゃないだろうか。そう考えないとあれだけのヒットの理由が分からない。日本でヒットしなかったことのほうが正解というものだ。
 7位のケティ・レスターの「ラブ・レター」は他のアーティストにもよくレパートリーにされているバラード曲だが、彼女のバージョンを是非聞いてみてほしい。全編ピアノが歌に絡むように合間を埋めていくのだが、これがジョン・レノンの「神God」のピアノそっくりなんですね。これはまたまたレノン君やってくれましたねという感じです。意識的か潜在意識下なのかは分かりませんけど。
 つづいて9位の「ヘイ・ベイビー」もビートルズのネタとして知る人ぞ知る楽曲。この曲のハーモニカをビートルズがデビュー曲「ラブ・ミー・ドゥ」の参考にしたという話。聴いてみるとパクったとは思えないメロディと音色に思うが…。日本では当時まったくヒットしなかったが、鈴木やすしと安村昌子がカバーしていた。TV『ホイホイ・ミュージック・スクール』などで“歌う司会者”として知られた鈴木やすしはそのうち歌より司会の方がメインになっていった感が強いが、カバー曲は結構シブい曲が多い。有名なリトル・リチャードの「ジェニ・ジェニ」のカバーをはじめ、ディオンの「リトル・ダイアン」(シブすぎ!)、ジーン・ピットニーの「恋の1/2」、デル・シャノンの「太陽を探せ」など他の歌手たちがあまりやらない個性的な歌を積極的にカバーしていた。でもだからあまり売れなかったのかも。

「ヘイ・ベイビー!!」

「ヘイ・ベイビー!!」
鈴木やすし

 このポーズは当然“ヘイ・ベイビー!”を表わしているのでしょ?


「恋の1/2」

「恋の1/2」
鈴木やすし

 これらカバー類はあまりパッとしなかったが、“起床ラッパ”?のアレンジで「朝日が昇るころ社長さんが帰る ああーいい気持ち」と歌うオリジナル曲「社長さんはいい気持」はよくテレビで歌っているのを見た。一番売れたんじゃないか。でもこんなコミックソングが代表曲になってしまうとは当初思いもしなかっただろう。

 10位のクライド・マクファターは日本には全然情報が入ってこなかった。今聴いてもすごくいいのだが、何故? 黒人歌手は当時日本の音楽関係者の中では「売れない」と一刀両断されていたのだと思う。マクファターは当時としては黒人独特のアクがあまりない上に、とても個性的で上手いヴォーカルを聴かせてくれる。


※印  画像提供…諸君征三郎さん



2009年 1月14日更新
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