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キャラメルのおまけ
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第5回「キャラメルのクーポン」の巻

日曜研究家串間努


 このあいだ、知り合いから「池田バンビキャラメル」「池田チョコレートキャラメル」の復刻版をいただいた。関東育ちには北海道の池田製菓というのは知らないメーカー。テレビコマーシャルをやっていた点からは名古屋の「青柳ういろう」のほうがまだ耳になじみがある。そんな地方菓子メーカーなんて「ヒマラヤ」だとか、「有明(ハーバー)」だとかいっぱいあると思いますのでお互い様です。
キャラメルのおまけ なぜか北海道は箱入りキャラメルが多い。オグラというメーカーはメロンキャラメルなど何種類も出しているし、旧古谷製菓の「ウインターキャラメル」の復刻版も売っている(ビールキャラメルはどこだっけ)。酪農王国と北海道土産がドッキングした結果だとは思うが、いまの時代、ドロップやキャラメルは売れない売れない。「サックモノ」といって、ポケットに携帯できるキャラメル関係では、森永をはじめボンタン飴、グリコなどがあったけれど、特に歯にくっつく「餅飴」系統のサックものは絶滅の危機である(オブラートで包んであるニチャニチャする飴。ボンタン飴もそう。古くはサクラ餅、ニンジタチバナン飴などいっぱいあった。若い人だったら駄菓子屋で買った、透明トレイに小さな飴が並んでいて楊枝で刺して食べるものを想像していただいたらよい。あれが餅飴で、昔はもっと大きくてキャラメルの箱に入っていたのだ。餅飴は、キャラメルと違って乳脂肪を使っていないからカロリーも低くヘルシーだ。こんにち的な素材や甘味料、パッケージを工夫すればダイエット嗜好の若い女性に受けるのではないかと思う)
 
 昭和二〇年代には、キャラメル・餅飴は大変な人気であった。そのため各メーカー、特に大手以外の中小は、カードを封入して、豪華な景品や、「もう一個あたり」のプロモーションを行っていた。
 ノベルティ(景品)をつけてキャラメルを販売するというのは、もともと戦前から江崎グリコが(おそらくアメリカのノベルティ戦略にヒントを得て)始めたものである。

キャラメルのおまけ

キャラメルのおまけ

 グリコは大正11年2月に発売された。薬種業を営んでいた江崎利一が、ある日浜で漁師たちがカキを煮ているのを見た。煮汁を捨てているのを見た利一は以前、カキにはグリコーゲンが多数含まれているという記事を読んだことを思い出し、カキの煮汁を使って国民の健康増進の食品を作ろうとした。それを育ち盛りの子供達に与えるため、キャラメルという形にしたのであった。このころの食品事業家たちは、「国民の健康」を考えるという人が多い。というかそのような社会的に意義がある大望を抱いているからこそ、今日的な成功を得ることができたのだろう。カルピスの創始者の三嶋海雲も、ヤクルトを開発した代田稔博士も、日本の児童たちが疫病で倒れたり、栄養状態が悪いことをみて、なんとかこれを救おうとして保健飲料の開発を志したのである。(余談:自分ひとりが金持ちになりたいという野心で事業を起こすことを否定はしないが、企業活動を通じて社会的な貢献ができるのは大変やりがい、生きがいのあることだ。たとえそれが葉書一枚の「ありがとうございます」であっても。一流企業に入って高い給料と福利厚生を受けるのも幸せの価値観のひとつだろうが、世のため人のために働くこともすばらしいことであることをもっと子どもに教えるべきである。たとえ収入が労働時間に見合ってなくても、自分のはたらきで幸せになる人数が多ければ多いほど仕事はやりがいがあるものだ)

 創業者江崎利一は森永キャラメルの森永太一郎、新高キャラメルの森平太郎と共に佐賀県人である。佐賀には、1個口に含んで汽車に乗ると博多まで持つという「博多まで」という大きな飴玉があった。これにヒントを得た利一は『ひとつぶ300メートル』というコピーを考えだした。実際に一粒のカロリーを計算して300メートル走れることを確認したのであった。
 そして先行商品である森永ミルクキャラメルや明治キャラメルに対抗するため、昭和2年4月に豆玩具のおまけをつけはじめた。昭和4年にはおまけを入れる小箱をつけ、立体的造形的なおまけをつけられることになった。素材的にはカード、銅製メダル、アンチモニー、粘土、紙、セルロイドが戦前で、昭和28〜34年が木やブリキ、昭和33年以降がプラスチックとなる。昭和33〜47年にかけては高度経済成長時代を反映し、テレビやステレオなどの生活電化製品などのおまけが主流となり、石油ショック以降はロボットや宇宙船などSF的なものが増えていった。

キャラメルのおまけ
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「紅梅キャラメル」破局

 昭和24年12月にキャラメルが自由販売になるまでは、キャラメルは統制品で、進駐軍の特需品あるいは復員局用か都道府県の配給品のみで生産されるのみであった。水飴の統制が撤廃されるとたちまち200メーカーもの零細のキャラメル業者が乱立し、10円キャラメルが月に4億個も出るほどだった。続いて砂糖の統制が撤廃されて、戦前と同じように砂糖で製造されたキャラメルが出初めて生産過剰となったため、メーカーが淘汰されて行く。そんななかで一歩抜きんでていたのが西のカバヤと東の紅梅製菓だった。

 グリコを例外として、明治製菓や森永製菓など大手製菓メーカーのキャラメルにはおまけは付いていない。そこで戦後、販売合戦が熾烈になってくると無名ブランド品はおまけで子どもを釣るようになった。味で勝負できないからだ。

キャラメルのおまけ
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 ちょうど戦後の少年野球ブームの時代、関東では東京紅梅製菓株式会社が、巨人軍と契約して、昭和26年に「紅梅キャラメル(10円)」に野球カードを封入し「野球は巨人、キャラメルは紅梅、ともに僕らの人気もの」のキャッチフレーズで大ヒットを飛ばした。当時の子どもの興味を引く「野球」と「キャラメル」を結びつけたのであるから人気を得るのも当然だろう。
 
 封入された野球カードを集め、その裏に「二塁打 三塁打」などのあたり表示で景品のグローブやバット、野球帽、サイン入りプロマイドがもらえる。巨人軍一チームのカード(選手と監督)を揃えるとユニフォームや野球道具一式が貰えるが、人気スターの川上・別所・水原監督はなかなか入っていない。体験者の話では「パッケージの梅マークの印刷ズレの箱は川上のカードが入っている」などの攻略法もあったという。しかし、「森永おもちゃのカンヅメプレゼント」のように商品そのものに金や銀の特殊印刷がしてあるのであれば、印刷の工程上、違う版で刷るので版ズレなど、多数の「はずれ」箱とは違う印刷が施される可能性はあるから、商品選択時に印刷ズレを見極めるのは意味がある。ところが紅梅キャラメルの場合はカードが別に印刷されて封入されているので、あたりカードの印刷はパッケージの印刷に対し影響を及ぼすはずがないのだが……。
 紅梅製菓は昭和21年1月、世田谷区松原に創業した。社長は森田利作氏。本社工場は500坪で、キャラメルヒット後の杉並新工場は高井戸に2000坪を有していた。大型宣伝カーを5台所有し、キャラメルの販売区域は東京を始めとする関東一円。南限は、静岡は伊東まで、北限は飛んで、宮城県下のみ。創業当時は紅梅サイダーそして炭坑用キャラメルを製造し、チョコレート、ミルクキャラメルへ進展していった。キャラメルの技師長は森永製菓の出身者で紅梅キャラメルの品質を向上させてきた。そのため他の10円モノキャラメルよりはおいしかったと伝えられるが「キャラメルそのものの味はあまり旨くなかった」という感想もあり、味覚は人それぞれなのでわからない。
 
 昭和26年6月には供給が間に合わず、設備増強・従業員募集(最盛期には7〜800名)するほどになり、賞品の引き換えに20名もの女子社員がかかりきりとなった。人気が高かったのは少年野球手帳とシャープペンシル。その他野球道具以外ではハーモニカ・カメラ・幻燈機・アルバム・写真立て・野球鉛筆・2色ボールペンがあった。各地の特約店の書店で貰える希望の少年少女雑誌というのも好評だったという。
 これらの賞品応募封筒の分析で、色々な統計が作られ、紅梅製菓株式会社の市場調査に役立ち、需要が多い少ないという地域の分布も判った。

 しかし過熱するカード集めは窃盗や万引き事件も引き起こし、世の大人たちの眉を顰めさせた。
 「最近の券つきキャラメルやガムの横行は目に余るものがあります。あるキャラメルは字合わせ、点数集めなどで、さまざまの賞品や本などを出しています。子供はその賞品ほしさに味の悪いキャラメルでもほしがります。ある子供は字を合わせたいためにキャラメルを買い、まずいので食べずにおいてあるそうです。券でそんなに賞品を出す費用があったら、それでも品物の質をよくすれば、自然に売れるのではないでしょうか。また当局でもこんなことをきびしく取り締まる規則はないものでしょうか。(東京・主婦)」という投稿が昭和29年の「朝日新聞」に掲載されている。確かに他の菓子が出まわるにつれてキャラメルの売り上げが落ちていくなか、全体の売上の6割を占めていたのは明治・森永で、しかも両者の売り上げは伸びていた。味がよければ景品がなくても売れたという証明であろう。しかしそのしわよせが残りの中堅・零細メーカーに寄り、それが景品競争を促進したのである。

キャラメルのおまけ
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 別の見方をすると、賞品を通じて購買者との結び付き強くしていった紅梅キャラメルはまた、「東京文化」の担い手でもあった。豪華な賞品は「東京」から地方都市の少年達への贈り物となった。キャラメルを食べさせるだけでなく、景品を通じて東京の流行の風を運んでいたともいえる。紅梅キャラメルがなければ絶対に手にすることができないカメラや幻灯機を貰えた子どもは確実にいたわけで、景品合戦に対し「品質が悪い」「射幸心をあおる」「景品が適当でない」など世論は批判するが、大人はもっと、紅梅が児童文化に果たした役割をみるべきである。
 
 紅梅キャラメルは日産80万ケース、月間1億8000万円の売り上げで、昭和28年12月にも月1億5000万円の営業成績を維持していた。
しかし昭和29年になりデフレとなると資金難で営業成績はガタ落ち。29年1月の取引高は5000万円だった。キャラメル業界全体が売れ行き不振となり、価格や景品競争が激しくなり、出血サービスを続けたが、売れ行きの凋落に歯止めはかからなかった。4月分の給料は遅配し、5月10日には松原町の本社工場は閉鎖となり、100人が人員整理された。6月22日に不渡り手形を出し、23日には従業員400人を集め、社長から「銀行取引が停止されたため操業困難となった」と7月22日限りの解雇を予告した。中学卒の従業員は平均18・5歳と若く、6月分の給料と退職金支払の見込みはなく、若い女工さんたちはぼう然自失の体だったという。しかし「紅梅の名を捨てては子どもに申し分けない。石にかじりついてでも更生する」と、同社は29年10月に小島氏を社長にして20余名で新紅梅製菓として再発足、販路を神奈川・千葉・東京に限定して「ヌガー」の生産からはじめた。ソフトキャラメルは、昭和30年1月から発売で7粒10円。結局、昭和34年に将来の発展に見切りをつけて会社を解散した。
 
 紅梅製菓の倒産は、アメ菓子の消費が全体的に冷え込んでいたことを基調とし、その上に社会問題化した景品カード問題から父兄の不買運動が起きたため、売り上げが減少したからだといわれているが、昭和29年にはキャラメルは再販指定商品になっており(実質上はほとんど指定されないまま1967年には取り消されたようだ)、これも少なからず影響があったのかもしれない。
 再販制とは再販売価格維持制度のことでメーカーが卸売業者や小売業者に商品の小売価格を提示し、その価格を維持させる定価販売制度だ。メーカーや取引業者が、小売価格(再販売価格)を決めてしまう。メーカーが小売店に対して商品を卸すことを販売といい、小売店が消費者に対して商品を売ることを再販売という。普通、再販売価格維持は自由で公正な競争を阻害するものとして独占禁止法19条で原則的に禁止されている。おそらくキャラメルの乱売合戦が起きたことで市場支配力のある有力メーカーが動いて、キャラメルの小売価格の値崩れを防止しようとして再販商品にしたのだろう。再販制度は弱小メーカーにはメリットはないのだ。
 
 元紅梅製菓の販売営業部長で紅梅商事の社長であった玉井浅次郎氏は「27年秋口あたりから公正取引委員会が『紅梅キャラメル』のカード集めの景品販売を取り上げ問題視するようになった」と「おまけとふろく大図鑑」(平凡社・1999年)で述べている。同書では玉井浅次郎氏とおぼしき人物が「学校で教師が買わないようにいった」という見解も掲載されている。教師や父兄、ひいては公正取引委員会などの社会が「紅梅キャラメル」を子どもに役立たぬ「悪」として「カバヤ」以上に攻撃をしたのは、「カバヤキャラメル」は「カバヤ文庫」という偉人伝を中心にした教育的絵本を景品につけていたことと無関係ではあるまい。同じ景品合戦でも、文化系的なイメージのある童話図書と享楽的イメージのある「野球」とではこのように扱いに差が生じるほど、当時の大人は子どもの教育環境を重んじて口をはさんでいたのである。
 紅梅製菓のこのブームは、甘味としてのキャラメル人気と、野球ブームと、カードブームにまたがる。味覚・遊び・蒐集に現実の野球選手の活躍と三要素が揃った。現在であればテレビやゲームと連動しメディアミックスとなったであろう。  

カバヤキャラメルと文庫

 おもに関西では、カバヤキャラメル(10円)の人気が高かった。
 林原一郎がカバヤ食品株式会社を昭和21年に設立し、会長に就任。前身は明治十六年創業の水飴製造業「林原商店」だが、戦後の甘味不足の状況にのり、多くの事業を手がけ、林原コンツェルンを実現した一代の風雲児だった。
 カバヤの名は、戦後、焼け跡の岡山駅前に中筋というヤミ市があり、そこに喫茶店「河馬屋」が開店、店の裏では菓子を製造した。主人の前田政ニは林原一郎の幼馴染であり、二人は手を組み、協力し合った。これがその名の由来であると(あさひふれんど千葉 1993.12.1)は伝える。

キャラメルのおまけ
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 キャラメルに封入されている、当時の人気キャラクター「ターザン」の絵入り点数カードを50点分集めると、カバヤ文庫1冊がもらえるシステムであった(カバヤキャラメルの中に文庫券をいれ、大当たり10点、カバ8点、ターザン2点、ボーイ1点、チーター1点とし、こどもがカードをためて本と交換する)。また「カ・バ・ヤ・文・庫」の文字5枚をあわせる方法もあったという。
 ところで交換方法についてだが、個別発送だったという話と、駄菓子屋での引き換えだったという話と2つある。
 「カバヤ文庫発刊のネックは郵送料金でした。第三種郵便物の認可をとらなければ、カバヤ食品のオマケでは問題外なので、急いでカバヤ児童文化研究所を設立して、定期刊行物としてカバヤ文庫を発行することで、やっと認可がおりました。ところが当時は定期刊行物としてハードカバーは認められません。林原一郎会長は子どもが大切にする本だからハードカバーです、とゆずりません。今だから話せるのですが、担当者は広島郵政局に提出する見本はペーパーバックスとして製作し、応募者にはハードカバーを送りました」(あさひふれんど千葉/1993.10.1)

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 昭和26年6月からはじまったこの制度は本がほしくても中々買ってもらえないこども達の心をひきつけ、大ヒットとなる。カバヤ文庫の第1号は昭和27年8月3日刊の「シンデレラひめ」と同年8月十日発行の『ピノキオの冒険』。最低5万部、人気の本は50万部も出たという。文庫の総発行部数は昭和29年までに週刊ペースで全159点、2千5百万部にも達した。これは、カバヤ文庫はカード合わせだけではなく、120円と送料16円を送れば購入できたからである。その後昭和28年に「カバヤ文庫」と並行して『三銃士』『宝島三勇士』『牛若丸』などの「カバヤマンガブックス」が発行されたが、これは親が財布のヒモを握っている以上、漫画には渋い態度のため子どもはなかなかキャラメルを買って貰えず、売り上げは低迷、当初人気だった企画は挫折したという。カバヤ文庫は昭和28年で終刊し、その後在庫整理のため宣伝隊(カバヤ・スイート・シスターズ)が子どもに配ったりしたが昭和33年頃にはそれもなくなる。
 
 景品競争が始まった昭和26年は、水飴の経済統制が解けたので200社が10円のキャラメルを月間に4億箱も作っていたほどだったが、雑穀、砂糖が野放しになり、ほかの菓子が出回るにつれてキャラメル業者は半減、生産も月2億5千万箱まで落ち込んだ。全体の売上げの6割を占めていたのは、立ち直った老舗の明治製菓・森永製菓で、着々と業績を伸ばし、キャラメル不況は、中堅の7、8社にしわよせがきたのであった。

カバヤ文庫は商業主義だったのか

 聖学院大学の本田和子教授は、「子どもの昭和史 おまけとふろくの大図鑑」(平凡社/1999・2)において、「おまけ」はキャラメルの価値そのものとは無関係で「不要物」であるという観点を持ちながら、カバヤ文庫や紅梅キャラメルの野球道具は「不要物」が有用化したものだという。そして、売るための原理として「いま現在の子どもの欲求にピタリと焦点」を合わせたという意味ではおまけの本流なのだという。更に「カバヤの営業マンが格別に児童文学に造詣が深く、かつ子どもの読書教育に熱意を持っていた」と言うのは「ナンセンス以外の何物でもない」とまで言い切る。「結果として、カバヤや紅梅の宣伝マンたちは、『戦後の子ども文化に貢献した』と後追い的言説を口にして胸を張ることが可能となった」と記述し、いやに、営利を追求する市場原理で動いている者が教育原理を口にすることに非難がましい(おまけは広告業界ではプレミアム。英語で割り増しの意味であり、商品本来には不要なものという視点はちょっと冷たいのではないでしょうか)。
キャラメルのおまけ 確かに前出のように、新聞投書にもキャラメルのオマケ人気について、大人の消費者からの批評も載っている時代だ。良識派のオトナたちの目をひそめさせるものはあっただろう。
 
 だからといって、メーカーが「売れればいい」という視点で、おまけで子どもを釣っていたと断じるわけにもいかない。資本主義の市場原理のなかに教育原理があるわけがないこともない。国民の文化や健康のために商品を開発しつつ儲けている資本家もいる。
 カバヤ文庫も文化的事業であった。
 「林原一郎(カバヤの創業者)は徹底した事業家であると同時に、夢見るロマンチストであった。カバヤ文庫の発足も全役員の無関心をおしきって『いまこそ少年たちに文化を』と独断で決定した。
 のちには『カバヤ・スイート・シスターズ』なる楽団というかセミプロの宣伝隊が結成され、全国各地の公民館、百貨店、学校等を巡回し「カバヤ子ども大会」を開催、カバヤキャラメルの空箱を十個持ってくるとカバヤ文庫を一冊渡すというようなこともしている。
 製作や宣伝費にはキャラメル一粒を0.01ミリ削って当てたという経営者の感覚が林原にはあった」(常住郷太郎「房総わが心象の風景 村のメルヘン」あさひふれんど千葉 1993.12.1)
 「キャラメルの販売だけではない、そこに文化的な意味を持たせたいと思ったところへ現れたのが京都の日本写真印刷株式会社の山下守である。本をキャラメルのおまけにという発想が若い二人にひらめきをもたらした。カバヤ食品の会長林原一郎は即断するや疾風のように行動を開始する。京都の印刷会社の株を買い占め、山下守を社長にして「カバヤ児童文化研究所」をつくり、ここがカバヤ文庫の印刷所になった」(常住郷太郎「房総わが心象の風景 村のメルヘン」アサヒフレンド千葉 1993.12.15)

 ただしカバヤキャラメルが明治や森永と伍していたとは僕も主張しない。僕の近所の理髪店が昭和40年代に、子どもの来店時に配布していたし、ゲームセンターの景品に使われていたこともあった。ということは一流品ではなかったのだろう。味も森永のほうが美味しかった。

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キャラメル商戦

 キャラメルの景品合戦が盛んであった昭和二〇年代には、カバヤと紅梅の成功に刺激され、他のメーカーもプレミアム作戦をとった。
 その方式に注目すると、
 1・カード封入 (カバヤ、紅梅のようにおまけカードをサック内に同封。複数枚集めないと権利が発生しない。または抽選券かわりとなる)
 2・おまけくじ (サック内に同封し、その場でもうひとつ当たるくじ)
 3・空きサック (キャラメルの空き箱そのものが応募券になる)
 4・おまけ封入 (グリコなどが、幻灯フィルムなどおまけそのものの紙製玩具を同封)などがある。また、駄菓子屋で5円以下で売られていたものには「即決」といって、その場で花火などが当たるものがあった。
キャラメルのおまけ 景品としては、スキー・スケート(池田製菓バンビ・ヒュッテキャラメル・昭和29年)、カメラ(渡辺グリーンキャラメル・昭和29年)、藤沢嵐子アワーや大相撲の招待(不二家)現金10万円(池田製菓・昭和30年)など、昭和三〇年代の特注玩具よりも実用的賞品が喜ばれた時代だった。また、このころはサックや包装紙の応募による催事や映画の招待が多いのも特徴である。
 空きサックを求めて、後楽園など野球場や遊園地ではゴミ箱をあさる児童の姿がみられ、「みっともない」と問題になったほど。
 昭和46年の仮面ライダーカードスナックポイ捨て事件とは隔世の感がある。たとえ賞品目当てで買ったまずいキャラメルでもきちんと食べていたようだ(ただ、それも量によるようで、キャラメルを大量に窃盗した集団は、カードだけ抜き取って、キャラメルは弟などにあげたという新聞記事もある。景品欲しさにもてあます子はいつの時代もいたようだ。

オリジナルに「少年ブーム」原稿を付加して改稿


2004年1月23日更新
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[ノスタルジー商店「まぼろし食料品店」]
第4回「チクロは旨かった」の巻
第3回「食品の包装資材の変化から見る食料品店」の巻
第2回「名糖ホームランバー」の巻
第1回「グリーンティ」の巻
[ノスタルジー薬局「元気ハツラツ本舗」]
第8回「参天製薬」の巻
第7回「グロンサン」の巻
第6回「レモン仁丹」というものがあったの巻
第5回「かぜ薬」の巻
第4回「メンソレータム」の巻
第3回「マキロン30周年」の巻
第2回「虫下しチョコレート」の巻
第1回「エビオスをポリポリと生食いしたことがありますか」の巻


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