第20回「サクラマット水彩」の巻
今はあまりやらないのかもしれないが、昭和40年代の小学校の教室では、先生がいろんなモノを売っていた。「友情の絵はがき」や「愛のひとしずく鉛筆」などの寄附モノのほか、缶入り肝油ドロップやドリルの申し込み書が担任の手によって配られた。
3年生の頃、水彩絵の具が売られたことがあった。日頃使っている12色ではなく、30色以上もある高級品だ(たぶん36色)。箱には黒と青のラインが引かれていたから、おそらくサクラの「マット水彩」だろう。 いつもこの手の商品を買ってもらえなかった私は、ダメでもともとと、「一生のお願いだから買ってくれ!」と頼んだ。大正生まれの父は「絵の具なんか12色で充分だ」と言うが、高度成長時代の子どもにはそんなストイックな消費生活はできない。「みんな持っている!」と言い募る私に、母はガマ口を開き、黙ってお金をくれた。
「12色、16色、20色…。絵具でもクレパスでも、やっぱり多いのが欲しい!」
教室でこの絵の具が教師から渡されると、音にもならないどよめきの空気が湧いた。箱を開けると、なんと大きなチューブ入りの白が2本も入っている。「エメラルドグリーン」とか「ぞうげいろ」という、海の果てにある楽園を思わせるような色の名前に私はシビれた。 もったいない存在としてチビチビとこの絵の具を使っていたが、しばらくして行われた千葉駅写生大会で、私は丸ごとなくしてしまった……。あまりにも箱が大きいので既存のスケッチケースに入らず、別に携帯していたのがアダになったのだ。 駅で掃除しているおじさんに「絵の具の忘れ物なかったですか?」と聞いたが、答えは「さあね」だった。私は絵の具をなくしたことよりも、貧乏な家計のなか、無理して買ってくれた母の愛情を台なしにしてしまったことが哀しかった。
「さくらマット水彩」は半透明水彩絵具として、昭和25年に発売された。メーカーの桜商会クレパス本舗(現・サクラクレパス)は「固くて滑りやすいクレヨンを改良し、子どもたちに使いやすくしたい」と願い、「クレパス」を大正14年に開発しているが、その経緯と同様の経過でマット水彩は誕生した。
「図工の時間には欠かせない“この1本”!」
従来、水彩絵の具には透明と不透明があったが、これらは小学生にとって使いにくい。そのため水彩絵具を使っての絵画教育は、好ましくないものとして敬遠されてきたが、その状況を同社は憂えたのだった。 「透明水彩は塗り間違えると修正が困難です。たとえば青空の上に黄色い太陽を描くと濁った茶色になってしまいますから、何色の上に何色を重ねたらいいのか、最初に計画性が必要です。不透明ですと、修正や塗り重ねが簡単にできますが、あまりにも不透明だと単純な絵になります。そこで両方の特性をもった半透明のマット水彩ができたのです」(株式会社サクラクレパス)。
マット水彩は子どもたちが失敗を恐れず、自由にかける水彩絵の具となり、昭和30年代から急速に図工の時間に普及していった。描きやすさが支持されたことと同時に、同社販売員が各学校を訪問して回った地道な営業活動や、ねばり強く続けられた顔料の改良が評価されたのだろう。
「今は絵の具も多種多様で、こんなのもある」
現在、少子化のほか、図画の時間が減るなど売上的には厳しい状況にあるが、平成7年には「ラミネートチューブ宣言」を出し、時代に対応する商品作りの手は休めていない。 「スズ張り鉛チューブは押せばへこむので残量がわかりますし、水分を逃がさないのですが、廃棄された場合の環境への影響を考えまして全廃しました」。 同社の絵具は、まず色がきれいであることに加え、誤って口にしたり皮膚についても安全な原料を使い、光で褪せないなどの耐久性を備えていることをポリシーに作られている。 50年前に小学生に扱いやすい絵の具として生まれたマット水彩。親子3代にわたって使っているかたもいるかもしれない。
2009年11月18日更新
第20回「サクラマット水彩」の巻
第19回「ヤマトのりが手につくとぬぐいたくなる」の巻
第18回「進化するホッチキス」の巻
第17回「学習帳と自由帳はいつからあったか」の巻
第16回「修整液ミスノン」のガンジーさんの巻
第15回「休み時間の鉛筆削り」の巻
第14回「LSIゲームの悲哀」の巻
第13回「ガチャガチャ」は素敵なインチキ兄貴だの巻
第12回「ニセモノのおもちゃ」の巻
第11回「仮面ライダー変身ベルト」の巻
第10回「アメリカのことは『人生ゲーム』で教わった」の巻
第9回「笑い袋」の巻
第8回「バスと電車の車掌さん」の巻
第7回「「家庭盤」ってあったよね」の巻
第6回「ヨーヨー」の巻
第5回「ママレンジ」の巻
第4回「ルービックキューブ」の巻
第3回「ガチャガチャ」の巻
第2回「軍人将棋は20世紀のリリック」の巻
第1回「昆虫採集セットはなんでなくなったんでしょ」の巻
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