田奈弾薬庫専用線跡 その2 - 昭和迷宮物件

(その1はコチラ)

はっきりと引込線が見て取れた。

1.廃線跡.jpg

この線路の先を目で追うと、奈良川がほぼ直角に折れ曲がっているのだが、こどもの国線の線路が川を跨ぐのに並行して、引込線のガーター橋が架かっていた。

2.並行する2線.jpg

リベットが沢山打ち込まれる様が時代を感じさせる。

3.軍用線UP.jpg

レールが2本、さらに並行して川を跨いでいるが、桁に渡していたものなのか、そもそも剥き出しだったのだろうか!?

4.レールむき出し.jpg

こどもの国線は軍用線跡を利用してはいるが、これを見る限り、全く上書きしたのではなく、並行して敷設されたのではないか。
これが全区間か一部区間かはわからないが、とにかく、長津田4号踏切の箇所では、並走していた痕跡がはっきりと見て取れた。

再びこどもの国線に沿って歩く。
こどもの国線とほぼ並走するように蛇行した奈良川はまた大きく右手に折れ、川幅を広く、ほぼ直線に流れだす。

5.蛇行する奈良川.jpg

この大きく折れるところでこどもの国線は川を跨ぐのだが、先の4号踏切からここまでの区間だけ、川が整備されていないというか、農業用水としての原風景に近い姿をみせている。ここから先は護岸整備されている。

奈良川MAP.jpg

航空写真を見ると、4号踏切の辺りから真っ直ぐ干上がった川のような筋が見える。真っ直ぐながれを変える予定があるのだろうか。多くは農地になっているようだが、氾濫したらと思うと心配でならない。

5.奈良川を跨ぐコンクリート橋.jpg

奈良川を跨ぐ橋梁は一見新しそうに見えるが、支柱をみると補強のアームがみてとれ、古いコンクリートとわかる。

5.コンクリート橋UP.jpg

ここまで並走してきたであろうこどもの国線と引込線だが、この先で分岐する。なんでわかるのかというと、この先にその痕跡が残っているからだ。

(続く)

11-マスク1.jpg

インフルエンザ関連のニュースを、今年ほど意識したことはありません。自分はどうにでもなりますが、0歳の赤ちゃんには、うつらないようにしなければいけませんから。なので、近所の病院で、医療従事者の人は2回打っていると聞き、「私も打ちます!」と、何年も打ったことないくせに、2回も打っちゃいました。実は気管支が弱いので、重症化しないようにと思いまして‥‥。高齢母は必死です。
ご紹介するのはマスクです。商品名は『ゼネラルマスク』。今のモノとは似ても似つかず、おどろおどろしいといいましょうか、不気味なデザインです。残念ながら本体はありませんでしたが、ケースがブリキというのはすごいですね。紙箱のモノは何個か持っていますが("その4 衛星優美・リリスマスクの巻"参照)、ブリキケースはこれしか見たことがありません。

11-マスク2.jpg

日本でマスクがつくられたのは大正時代だそうです。最初は工場で使用する粉塵よけとして誕生しましたが、大正8年にスペイン風邪(今でいうところのインフルエンザ)が大流行し、予防用としてマスクは注目され、メーカーが乱立するほど売れたそうです。どうりで、たくさん種類があると思いました。当時のマスクは、カラスのクチバシのように黒く、枠組みは真鍮製で、呼吸する部分は金網が使われ、全体は布やベッチン、革などでつくられました。けれど、真鍮などの金属は吐息で錆びてしまうため、金属からセルロイドに代わり、その後、枠のない布地だけのマスクになっていったそうです。
ゼネラルマスクの裏面に書かれた説明書きを読むと、「ゼネラルマスクヲ御使用セラルル時ハ 一般ノ流行病ヲ 未然ニ防止シ 且ツ此レヲ根絶ヤシムルル効果アラシムルモノナリ」と書いてあります。このマスクを使用するだけで、病気を防止するだけでなく、病気を根絶やしにできるとは、なんとも素晴らしいマスクです(無理なのでは?)。ケースの大きさは、横幅7.3センチ、縦6センチ、厚さ2.5センチで、マスクの仰々しさに比べると、コンパクトなモノに思えます。形状は違えど、今から90年前の日本でも、現在と同じようにインフルエンザを恐れ、マスクで予防していたのですね。私もかからないように、マスクはもちろんですが、手洗いとうがいを頑張りたいと思います。なんといっても、今年の東京は、2月6日まで38日間も乾燥注意報が続きました(継続日数は歴代第2位だそうです)。それに、インフルエンザも患者数が15万人を越え、今シーズンはじめて警報レベルを越えたそうです。

11-マスク絵葉書.jpg

おしまいに、マスク姿の絵葉書をご紹介します。マスク姿といっても、食品衛生上のために使用しているのですが‥‥。姫路駅の"まねき"というお店で、お弁当づくりの作業中を写した絵葉書です。顔の大きさに比べて、マスクは小さく、黒いのが印象的ですが、当時から衛生面に気を配っておられたことが、うかがい知れる1枚なのです。この"まねき"こと"まねき食品"について、検索してみたところ、姫路駅名物「えきそば」の会社でした。立派なホームページがあり、社史も紹介していますが、それによると明治21年に創業され、翌22年より姫路駅にて、日本初の経木入り幕の内弁当を販売したそうです。現在も会席料理、折詰、お弁当、お菓子などの製造販売から、レストラン、麺類店の経営までしておられますが、まねきの「えきそば」のほうが、わかる方が多いのではないでしょうか。なんといっても、日清食品からカップ麺まで発売されているのですから‥‥。味はもちろんですが、きちんとした衛生管理の様子を、昭和初期から絵葉書に残しておられることも、素晴らしいと思いました。

11-マスク絵葉書部分.jpg

田奈弾薬庫専用線跡 その1 - 昭和迷宮物件

今回から数回に分けて散策レポートをお届けしたい。前回記事から間があいてしまい、エラいフリが長くなってしまったが、そんなに期待せず、お楽しみあれ。

前連載の第33回「弾薬庫ばかりの"子供のくに"」にて、横浜にあるレクリエーション施設「こどもの国」は、旧日本軍~米軍施設の跡地であり、未だ数多くの弾薬庫跡が現存している様子を紹介させてもらった。
こどもの国への主たる交通手段となる、東急こどもの国線は、弾薬庫へと伸びる貨物の引込線と触れるに留まったが、その廃線跡が一部現存すると知り、前回から1年、再び正月に長津田駅へ向かう。

長津田駅はJR横浜線と東急田園都市線を繋ぐターミナル駅なので、正月でも駅前のめし屋くらいやってるだろうと気軽な気持ちで降り立ったが、JR側は旧街道の宿場町として嘗ては栄えたって感じに、鄙びた雰囲気。ロータリーも狭く、木造の日本家屋も多い。
1.JR長津田駅前風景.jpg
これなら逆に駅前食堂か喫茶店を期待してしまうが、見事に正月休み。

2.長津田駅東急側田園風景.jpg
田園都市線側はすぐに住宅街だし、こどもの国線に沿って少し歩いてみるが、畑が広がるほどなにもない。
3.長津田1号踏切.jpg
踏切から線路脇を望むも、住宅が密集し、遺構らしきものは見当たらない。

4.長津田こどもの国線線路脇風景.jpg

3つしか駅がないこどもの国線、仕方なく1駅だけ乗って恩田で降りる。
その間の車窓も田畑が広がり、親子が凧揚げをしているというほのぼのとした風景がただ眺望できるだけだった。
ただ、電車が走るのは小高い丘状の上で、貨物の引込線のために作られたと思われる形状だ。
恩田駅は近代的な、逆に言えば素っ気ない無機質な駅だが、車両基地があり、ホームから東急車輛に保線車も望める。
5.恩田駅車庫.jpg
簡易自動改札機が並ぶだけの味気ない改札を抜け、葱畑脇を歩く。
6.葱畑.jpg
線路は恩田川の支流にあたる奈良川と時折交わりながら並走する。この、何回か川を跨ぐ橋のひとつに、貨物線跡があるらしい。
7.川と並走.jpg
500m以上歩いただろうか、長津田4号踏切と記された脇、矢剣橋の袂に、明らかに不自然な柵がある。
8.矢剣橋.jpg
そこから先を見やると、なにやら水路を跨ぐこどもの国線に並ぶ橋梁のようなものが見えるぞ。

9.矢剣橋の先.jpg

恐る恐る近づくと、線路脇の枯れ草の隙間から、錆びついた線路が2本、ハッキリと見て取れた!
10.線路跡2本.jpg
(続く)

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