小生が小学生5年生だった昭和49年頃、床屋のおまけとして小さな袋に入った外国切手をもらったことがある。使用済の切手だが、日本では見られない花や動物などの図柄がとても新鮮で美しかった。今はそうでもないけれど、当時は切手を集めている子供がかなりいて、そういった子の家に遊びに行くとコレクションを囲んで切手談義に花が咲いた。今回の昭和のライフでは、子供達が親しんだ戦後の外国切手について取り上げる。
1.「社会科の教材?」として
串間努さんの『少年ブーム』(晶文社、平成15年)によれば、戦後、5回の切手ブームが訪れたという。占領軍の兵士の土産向けに切手が買い漁られた昭和22年の第1次ブーム。郵政当局が主導して収集家を組織・育成することによってもたらされた27年の第2次ブーム。グリコのおまけとして切手が使われた32年の第3次ブーム。38年の第4次ブーム。45年の第5次ブーム。
昭和27年頃の新聞を見ると、当時の趣味の切手販売店は資金2〜3万円で始められ、利益は仕入品の販売で3割、仲間取引で2割5分、コレクターからの買い取りで4〜5割位だったという。(『読売新聞』昭和27年3月17日朝刊2面)また、同時期の文具業界紙には次のような広告が掲載されていた。
外国切手を入れた透明袋を台紙付けしたもののようで、仕入価格が400円で販売価格は600円。台紙の切手を全部売れば利益は200円となる。この場合、利益は仕入価格の5割と新聞の記述に対して大きいが、そもそも日本では使えない外国切手を扱うので、売れ残るとその価値は限りなくゼロに近くなってしまう。そういったリスクについてはこの広告では説明していない。小学生の頃、学校の近くの文房具店にこういった切手が並んでいたが、デパートで売っている趣味の切手類が何でこんな場末のお店にあったのか、幼心に疑問に思っていた。実際に学校が社会科の学習のために切手収集を奨励していたのかはわからないが、この種の広告が文具店と切手を結びつけたのだろう。
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2.「グリコのおまけ」として |
昭和32年春、グリコ株式会社は景品として外国切手を入れた「グリコ」と「アーモンドグリコ」を関西地区に限定して販売した。その後、8月になって、「世界の切手をあなたに」というキャンペーン名で全国発売を開始し、小・中学生を中心に一大切手ブームをもたらした。初めおまけとして付けられていたのは外国切手のみだったが、好調な売り上げに切手の供給が追いつかず(3ヶ月分3000万枚の使用済み外国切手がまたたく間になくなったという)、9月頃から「学校サービス券」(購入者と学校の双方に切手等が当たる)や「ラッキー補助券」(一定数集めて切手や付属品と交換)も入れられるようになり、後には日本の切手も使われるようになった。翌年には戌年にちなんで犬切手が増やされ、インド・オランダ・チェコ・ハンガリー・ソ連といった当時の日本ではなじみの薄い国々の切手も追加された。江崎グリコの社史によれば、「このキャンペーンは切手コレクション趣味にアピールするだけでなく、小・中学生の、各国の歴史や民族性についての認識を深め、知識と情操の向上に貢献するものとして、その社会性・文化性も評価された」そうである。
39年7月には第2次切手キャンペーン「世界の切手をあつめよう、とっかえよう」が実施され、グリコの全製品に、「世界の切手」、「日本記念切手とりかえ券」、「世界切手とりかえ券」、「切手サービス券」のいずれかが入れられた。また、全国の菓子店でオールカラーの『ぼくらの世界切手カタログ』(日本郵趣協会編、50円)が販売され、盛り上げが図られた。
3.昭和40年前半の外国切手輸出入状況と大阪万博
表1を見ると、収集用外国切手類の輸入量はグリコの第2次キャンペーンのあった昭和39年に数量で約15トン、金額で3億円に達していた。しかし、40年代に入るとその反動からか輸入は5年間低迷を続けた。当時の相手先(国、地域)の上位を見ると、常連の米英の他に、チェコや北朝鮮、北ベトナムといった社会主義国の小国や、米統治下の琉球(沖縄)がランク入りしている。輸出の方に目を転じると、40年に数量ベースでピークをつけてからは、低落傾向にあったことがわかる。
45年の大阪万博は日本人の海外への関心を大いにかき立てたが、切手の輸入にも影響を及ぼした。この年輸入された切手は45トン、10億円を超えた。数量で前年の12.4倍、金額で5.8倍である。万博の特需を期待して輸入した業者も多かったのだろう。しかし、輸入相手先の数は62と意外に少ない。万博に参加した国は77ヶ国だが、それを下回っている。国によっては切手の入手が困難なところもあったのだろう。一方、輸出には万博の影響は現れなかった。万博の開催によって世界各国の日本への関心が増し、日本からの切手の輸出が増えていくような気がするが、実際は数量で前年の1.4倍になったものの、金額では5割以下に落ち込み、相手先の数は17から11へと減ってしまった。万博に熱狂する日本を、世界はクールに眺めていたのだ。
昭和47年5月15日、沖縄返還協定が発効し、沖縄の施政権が米国から日本へ返還された。日本切手への切り替えに伴う経過措置で、琉球政府郵政庁で発行していた沖縄切手は6月3日で使用を停止することになった。この「日本国内で通用していたドル・セント表示の切手」に対して、従来の外国切手ファンのみならず、小・中学生を含む広範な日本切手ファンが注目した。切手業者は、それを見越して46年末から沖縄切手を買い漁り、翌年3月になると数百人のアルバイトを動員して新規発行される切手を買い占めるに至った。4月20日には発行される最後の切手を求めて郵政庁に3万人が行列を作り、買って出てきた人を本土からの業者15、6人が取り囲んで、3倍の値段(額面5セント20枚で1シート、1人10シート売りなので元値は10ドル)で買い上げたという。(『毎日新聞』昭和47年5月19日朝刊10面)
こうやって手に入れた沖縄切手は、大手デパートの即売会などで高値で販売された。一部マスコミも投機熱を煽ったが長くは続かず、翌48年5月に換金客が買い取り業者に殺到、翌月にはパニック状態となってブームは破綻した。
収集用外国切手類の輸入は、沖縄海洋博のあった昭和50年に再び増加するが、つくば万博のあった60年には盛り上がりを見せなかった。そして平成に入り、切手の輸出入は不振を極めている。昭和30・40年代の切手収集ブームの際は小・中学生が大きな役割を担ったが、昨今の少子化によってその数が減っている。また、トレーディングカードに代表されるように、収集対象が細分化・専門家されて、昔のように切手のみに人気が集中するということもなくなったのだろう。ちょっぴりさびしい気もするが、来年の愛知万博を機に復活してくれないかとひそかに願っている今日この頃である。
[参考文献 |
『創意工夫 江崎グリコ70年史』江崎グリコ株式会社 平成4年 |
『解説・戦後記念切手U ビードロ・写楽の時代 グリコのオマケが切手だった頃 1952−1960』日本郵趣出版 平成16年 |
『郵趣』1964年9月号 日本郵趣協会 |
『郵趣』1972年6月号 日本郵趣協会 |
『郵趣』1973年7月号 日本郵趣協会] |
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2004年6月23日更新
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