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第14回「あなたは塾にいきましたか」の巻

日曜研究家串間努


 昭和四十年代半ばであったが、私の家の周りにはまだまだ、田んぼや野原が残っていた。下は四歳から上は小学校六年生までが一団となって、夕方、暗くなるまで遊んでいた。そんな、三〇年代っぽい暮らしの中に、同居していた四〇年代っぽさは『塾通い』である。

駄菓子屋 いまからは信じられないことだろうが、私が小学生のころの昭和50年代前半には、学習塾に行っている子は非常に少なかった。1学年160名中、3人くらいしかおらず、たまたま私のクラスにその中の1人がいたが、尊敬されていたというよりは揶揄されていた存在だった。みんなが放課後に、校庭でたわいなく遊んでいるなか、メガネをかけた彼女はもくもくと帰宅し、塾に通っていた。県で一番の進学校に行ったあと薬剤師になったと風のたよりで聞いた。駄菓子屋で買い物したり、子ども同士で遊んだり。そんな体験の無さをデメリットと考えなければ、「アリとキリギリス」の寓話のように人生上では成功したことを祝うべきなんだろう。

 実は学習塾の歴史は古い。学校教育の補完、上級学校への進学予備を有料で実施しているという意味での学習塾のさきがけは、明治から大正にかけての中学進学塾「日本進学教室」と、地域の補習を担っていた浅草の「島本時習塾」であり、珠算や習字の塾と違って「勉強学校」といわれていた時代であった。

小学生

 戦後から昭和31年までには、「四谷大塚進学教室」をはじめとする有名学習塾の前身が東京・大阪を中心に発展していた。戦後直後は進駐軍と英語で話す必要もあり、各地で英語塾が生まれた。それらの英語塾を母体として、学習塾に脱皮し成長するものもあった。
 日本の経済復興とともに私立中学の入試が盛んになり、昭和32年には学習塾の存在が大きくしられることになる。34年になると、四谷大塚などの名門学習塾にいくための学習塾まで登場、塾の講師も大学性のバイトから専任講師制になっていく。所得向上による高校進学率の増加、ベビーブームによる児童数の増加とともに塾の数も増え、42年には東京で「学校群制度」が導入されて、郡制度と高校入試の情報を求めて塾の需要が高まった。マンモス学校が増加していた45年ころには、子どものために補習の必要を感じる「教育ママ」も登場、学習机の豪奢さ、勉強部屋の普及とともに塾への関心も高まっていく。昭和52年には「乱塾時代」という言葉も週刊誌に踊った。昭和53年の「学校外教育実態調査」(文部省)によると小中学生の5人に1人が塾に通っていたという。2割が通っていたというのにウチの学校では1クラス40人に1人くらいだったのか。チト少ないな。

 学習塾に通っているのはクラスに一人くらいだったが、習字やそろばん、剣道の塾に通っているのが結構いた。私は仲がいい友達同士が連れ立ってそろばん塾に行き、帰りには駄菓子屋でおでんを食べているのを見るととてもうらやましかった。小学校の書道教育は終戦で廃止となり、昭和三十三年に復活された。ということは町の書道塾もそのころから出てきたと言うことだろう。

 あとは英語塾というのがあった。英語塾というのはもう死語かもしれないな。私も近くの幼稚園で園長先生が始めたのを電信柱の貼り紙でみて、一年ほど行ったことがあるが、近くの中学で使っている一年生の教科書を習うものであった。三年前からの予習である。小さい頃、幼稚園に行った経験がないので初めて入った幼稚園の内部に感心した。便器やイスが小さいのである。へんなところに目を向けていたものだが、肝心の授業はさっぱり覚えていない。

 家にある木製の大きな商家用そろばんに片足を乗せてローラースケートのように廊下を滑っている私が、そろばん塾に通いたいといっても、家の者はまともに取り上げてくれなかった。まあ、いいかと思ったが、私が、小学四年生になってはじめて学校でそろばんを習ったとき、塾に通わなかったことを後悔させられることになった。通っていたものとのハンデが大きすぎて、理解ができないのである。算数の他の単元は人よりも出来たというのに。

 先生が「正解者は次の問題に進みなさい」といって、机の間を巡り、生徒のそろばん上の答えを見て「はいOK」と採点するのだが、私にはいつまで経ってもOKがでない。みんなが御破算にして、五桁の珠を人差し指で横にビーッと弾いている音を横に聞きながら、泣きたい思いだった。その学期の算数の点はさんざんだった。私はそろばんを算数に取り入れた先人を呪った。ちょうど電卓「カシオミニ」が出たかでないかの頃だったので、無下にそろばんが将来、「絶対に要らない」ともいえない時代だったのである。

 珠算は明治一二年に数学科の一単元として取り入れられ、一九年に尋常小学校の正課となった。明治四一年に神田の村田謙造が現在のような四ツ珠そろばんを作ったが一般には普及しなかったという。昭和一三年に文部省が小学校の必須課目として決めた際に四ツ珠そろばんが採用された後、四ツ珠が主流となった。明治の子どもの中にもそろばんができなくて泣いた子がいただろうか……。

 昔は「読み書きそろばん」であり、そろばんができることは立身出世の第一歩だった。働く上での実利上ではそろばん塾も学習塾も目的はおなじなのだ。戦後の日本は高学歴社会の到来で、学習塾産業が伸び、子どもから『遊びの時間』を奪った。その結果、駄菓子屋と秘密基地を中心とする空き地文化が衰退していくという構図に子ども社会全体が変わっていったのである。

「はるか」に大幅加筆


2004年4月14日更新
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