第6回「回転焼と大判焼と今川焼の間には」の巻
昭和40年代のデパチカで流行していた「都まんじゅう」。これは回転式機械を用いた実演販売形式の、小さな今川焼のことだが、このルーツを調べていた途上、「今川焼とはなんですか」と怪訝に聞き返されてしまった。え、今川焼ってポピュラーな名詞ではないの? まあ確かに「甘太郎」とか「自慢焼」というひとがいることは知っていた。それらは派生であって、根幹は今川焼でしょと認識していた。今川焼という名前は食品辞典とか事物起源事典にも載っているので、てっきり普通名詞かと思い込んでしまっていたのだ。
どうせ「都まんじゅう」の調査は頓挫中なので、今川焼きの歴史を調べようと、ネットでリサーチしてみると、餡を小麦粉と砂糖の生地で包んで円形の型で焼いた菓子のことは、地域によってさまざまに呼ばれており、そのことに着目したサイトさえあった。
統計をとったサイトによれば、上位4つは回転焼き、大判焼き、御座候、今川焼きとなる。
その他、 太鼓焼き、蜂楽饅頭、太鼓饅、ふうまん、どんどん焼き、ロンドン焼き、自慢焼き、回転饅頭、回転万十、黄金饅頭、黄金焼き、あじまん、夫婦饅頭、福福饅頭、円盤焼き、びっくり饅頭、甘太郎焼き、あんこ饅頭、ホームラン焼き、ひぎり焼き、あずま焼き、太閤焼き、ずぼら焼き、ほてい焼き、人工衛星饅頭、満月焼き、大納言焼き、義士焼き、二重焼き、三笠焼き、小判焼き、太鼓饅、磐井焼、どりこの饅頭などがある。
うひゃあ。自分が考えている常識というのはエライ小さなことであったことよ。
日本全国のおよその分布をみると、九州を中心とした西日本では回転焼で、関東は今川焼、そのほかの地域は大判焼という呼称である。デフォルトは大判焼きである。
●今川焼きは饅頭なのか焼き菓子なのか
上記のさまざまな呼称の根本は、今川焼きが饅頭の範囲なのか、焼き菓子なのかという点でまず見解がわかれているとみえる。「〜饅頭」というのは結局、穀物材料で作った皮のなかに「あん」をいれたというところから来ているのだろう。しかし今川焼きを饅頭というには、セイロで蒸かしていないので、饅頭の主流から離れている。そんなことから、「〜焼き」とつけたもののほうが多いに違いない。
和菓子の専門的には、饅頭はおおむねセイロで「蒸す」か、天火で蒸し焼きにする工程がある。「焼く」工程があるのに饅頭という名称があるものを調べてみると、
数多くの饅頭のなかから、「鳴戸饅頭」(平鍋でタネを焼き、白餡を入れたあとにくるくる巻く)と、「唐饅頭」(平鍋の上に金輪型を並べ、タネを流して餡を入れ、さらに種を匙で塗り裏返して焼いて型をはずす)いうのがみつかっただけである。また、小麦粉と卵を中心としたタネで餡を内包し、鉄板で丸型または楕円型で焼き上げる方法の菓子は、「山吹」「つやぶくさ」「武蔵野」というものがある。しかし鉄板がくぼんでいないためか、焼いたタネで餡を包んで折り曲げるという形(ワッフルと同じ)、あるいは2枚のタネを焼いて餡をサンドイッチにする形である。「きぬた巻」「健皮巻」というのは焼いてはいるがぐるぐるに丸めているし。今川焼きのように型に入れた種を合わせて、両面を焼く方法であるのは、「三笠山」という菓子であった。
この製法は「砂糖・卵・小麦粉をこね合わせ、手のついた銅の丸穴を作った平鍋の合わせ型に種液を注ぎいれこれに挽き茶餡あるいは八重成餡を丸めて入れ、他の半型に少し種を入れて2つを合わせ、狐色に焼いて型から取り出し、上面に三笠山の焼印を押す」とある。まさに今川焼きではないか。
文明堂の「三笠山」は、2枚の皮ではさんだどら焼きだが、これとも関係があるのかもしれない。なお三笠山と同じつくりかたで、白餡を使用したものは「吉野の里」と記述してある。ちなみにどらやきの創始者は銀座の梅花亭で明治元年のことだ(和菓子のことについての典拠は「和洋菓子製造大鑑」、東洋製菓新聞社、大正14年を参考にしました。地方や時代によって和菓子の呼び名や製法は異なるかもしれません)。
●細かい名称について
前項であがった名称のうち、あまりなじみのないものは、長野・善光寺の「どりこの饅頭」のように、その店独自のローカルなものであろう。ひぎり焼というのは「日切焼」で、四国の松山市駅前で売っているもの。蜂楽饅頭は熊本で、ずぼら焼きは海南市である。
「福福饅頭」というのは非常に疑問な名称で、実態として存在するかもしれないが(尾道市)、もともとは店頭で蒸篭で蒸した酒まんじゅうを指していう。食料品店店頭の電機式スチーマーが普及していないころの冬場に三好野や伊勢屋などの甘味喫茶(関西でいう力餅食堂)で売られていたものである。現在なら肉まん、あんまんがこれにあたるだろう。
甘太郎焼は埼玉の飯能や千葉の野田、前橋、茨城で「名物」として店を構えていることが多い。埼玉の川口駅東口にも「太郎焼本舗」があったが、これも同じ流れであろう。太郎焼は甘太郎と同ルーツらしく、「本舗」がつくケースが多々みられる。甘栗太郎と関係あるのかないのかわからないが、大正から存在する「甘栗太郎」の威勢を借りて「甘太郎」とネーミングをしたという妄想、予想も当然でてくる。居酒屋の「甘太郎」チェーンは、もとは甘太郎焼の小店からスタートした、などのエピソードがあったら面白いではないか。
この手の商品は、当時流行の最先端のものをネーミングにもってくることもあり、「人工衛星饅頭」はそのでんであろう。人工衛星饅頭は、スプートニク1号が打ち上げられた翌年の昭和33年に、神戸市で開業した大吉屋が発売したものである。人工衛星饅頭は周縁のエッジがきれいに円筒形にはなっておらず、そろばんの珠状である(どらやきに近い)。おそらく「円盤焼き」も形は人工衛星饅頭に似ているのであろう。
ホームラン焼き(釧路、静岡、大阪にあり)は野球のボールを模して縫い目が入っており、「ホームラン」という文字が焼かれる。ふうまんは「ふーふーしながら食べる」からふうまんであり、夫婦饅頭は、製造工程から名づけられたものだろう。
今川焼きの作り方には二種類あり、タネを入れ、餡をのせ、またタネを入れてひっくり返す方法と、2度目のタネはいれないで、別のところで焼いたタネを乗せて焼く方法がある。後者の調理方法をとるものを「二重焼き」と呼んだとみられ、「夫婦饅頭」も製造工程上、後者の焼きかたをみて夫婦合体とみなしたネーミングではないかと推測する。
●大判焼は金貨である
型のちがいに着目すると、大判焼はその名の通り大判小判の形、つまり楕円である。今川焼きも楕円であり、真円の形のものはその形から太鼓焼きと呼ばれる。今川焼の皮に巴型を焼印で押したものが「太鼓焼」であり「義士焼」(「巴焼き」もこれだろう)という記述をする書籍もあるので、今川焼には楕円も真円も両方あるのかもしれない。
いま、思い出しても昔は自慢焼きをはじめ大判型のものが多く、平成に近づくほど、円形のものが進出してきた印象がある。黄金焼きも甘太郎も円形であった。
焼けたあとの大きさ的には、大判型、真円型、円形だが周縁が切り立っていないどらやき型、小型の4種類があるようだ。しかしこれは鉄板の焼き型の形や深さの工夫でどうにでもなることである。
大判焼きの名前のルーツについてネットでは「江戸時代の貨幣である大判を模した」説、「今川焼きよりもビックサイズ(大判)だったから」説があるようだが(http://www.katch.ne.jp/~motito/column-41.htm)、前者の大判小判の形を模した説に私は軍配を挙げたい。
昭和40年代には、船橋食品パン(フナショクパン)から「大判」という名前のカステラ(30円)が販売されていた(私は大好きで毎日のように食べていたのだ)。昭和20年代から40年代にかけて、「大判小判」は縁起が良いので菓子の名前にも多用されていた時代がある。ネーミング的にも「鴈治郎飴」「扇雀飴」(余談ですが、中村鴈治郎が中村扇雀になります。親子襲名)、「歌舞伎飴」など、外国語から持ってくるのではなく、江戸情緒からネーミングする動きはあったのだ。昭和33年〜昭和35年ころに大判焼きの機械が発明されたというが、この機械の命名者の思考は、時代を象徴するホームランとかインスタントとか人工衛星などに行かず、今川焼きの江戸情緒の流れを組んでみたのだろう(ネットに 「松山市の花園町の通りと三番町との交差点のところに、ハンドメイド材料・器具の店『松山丸三』があるが、この店が『大判焼』の元祖らしいわい。昭和33年に『大判焼の素と器具』を開発し、これが大ヒットとなったんじゃと。大判焼のルーツが松山にあったとは意外なもんじゃ」http://plaza22.mbn.or.jp/~kotaro_mil/iyosumi/theme/meibutsu/okashi.htmという資料がある)。
●回転焼とはもしかして……。
九州を中心とした地方では「回転焼」と呼ぶという。そのネーミングの理由は、「円形の焼き板に丸型が並んでいて、円形の焼き板の中心に軸があり手前で焼きやすいように焼き板を回転させたことから回転焼と呼ばれるようになりました」ということである(http://hb2.seikyou.ne.jp/home/my-morita/ni/how_to/ni_howto1.htm ここには回転焼の機械の写真もある)。
なぬ? その機械で焼く製法の菓子は、私がルーツを探している「都まんじゅう」のことではないだろうか。
その疑念を裏付けるのが、京都の名物ロンドン焼き。ロンドンヤが焼いているから「ロンドン焼」だが、これも写真でみると「都まんじゅう」のように、焼き型の金属製の輪が次々に機械的に進んでいき、タネが流し込まれて焼かれていく半自動的なものであった。しかもいまどき45円で小ぶりで白餡という。うん、これは「都まんじゅう」そのものである。表面に「ロンドンヤ」と焼印を押してあるし。
私は「都まんじゅう」と「今川焼き」とは別種のものだと思っていたので衝撃である。もしかしたら、回転焼きとは「都まんじゅう」のことであり、今川焼きのように製造人が焼き台につきっきりでタネを流したり、ひっくり返す製法のまんじゅうではなく、九州のほうではそのような今川焼きはポピュラーではないということなのではないのか。
小ぶりで半自動的な「都まんじゅう」は大型の機械が必要で、今川焼きのようにスーパーの軽食コーナーの片隅などでつつましくできる設備ではない。
その証拠に、「氷」とか「おでん」という字を染め抜いた「吊り下げ旗」の既製品で存在するのは「大判焼き」、「今川焼き」、「二重焼き」であり、「回転焼き」はない。回転焼きは旗を出すような小店ではなく、のれんや看板が必要な「店舗」で製造するからだろう。
(いやあしかしまいったな。「都まんじゅう」の調査が進まないから今川焼きに切り替えたのに、また都まんじゅうに出会ってしまいました。もうこうなればとことん今川焼きを調べてみよう)
今川焼き系の菓子が全国でこのように名称が異なっているということは、「都まんじゅう」にも同じことがいえるのだろう。京都のかたにとっては「ロンドン焼き」であり、九州人にとっては「回転焼き」だ。つまり、前述のランキングをはじめ、今川焼き系の菓子の呼び名を集めているサイトに寄せられた名称には、直径が大きい「今川焼き」系と、直径が小さい「都まんじゅう」系の名前が混合しているのだ。混合してはいけないのかといわれればそんなに強く反対する理由はないのだが。
私が、両者を別個のものとして考えるのは、単に人力で焼くのと、機械で焼くのをごっちゃにするのがいやだという情緒的理由しかない。どちらも「実演販売」ではあるのだが、機械にそれをやらせているというのが、なんだか手抜きのようでイヤである。その考えの奥底には「機械文明への潜在的批判」という小難しい感情が渦巻いているのかもしれないが、いまは理屈抜きで、今川焼きというものは手作業なのだといいたい。子どもじみた意識だが、今川焼き1個の価格には、白衣を着た店員が、リズミカルにタネを流し込み、あんこをきっちりとヘラで投げ入れるというパフォーマンス代も入っているはずだ。
さて、都まんじゅうは北海道では「とうまん」というものに該当する。昭和30年代に丸井今井百貨店1階入り口近くに「とうまん」売り場があったことを覚えている子どもは多いという(和田由美「こだわりのロングセラー」共同文化社、2000年)。私の子ども時代と同じように、「ガシャンガシャンと鳴る機械が自動的にとうまんを作り上げ様を飽きずに眺めた」、北海道の子どもたちがいたのだ。同書によれば、とうまんは中央創成小学校のPTA資金を集めるために、PTA関係者が、小学校の目の前にあった百貨店の1階で昭和27年から作り始めたという。
●まだあるぞ、自慢焼とはなんだ!
千葉市ではおおむね「自慢焼」という名称を使っていたようである。私は子どものころ、あいうえおが描かれた平型の木製積み木を四角い箱のなかに並べてひっくりかえしては「自慢焼き屋さんごっこ」をしていた。将来なりたい夢の職業は、バスの車掌、し尿汲み取り業、消毒業、月賦販売店の事務係、そして自慢焼き屋であった。すべて3〜5才のときの私がすれちがったオトナがやっていた職業である。もちろん忍者やスパイなどの荒唐無稽なものにもなりたかったが、実務作業のほうが好きだったのである。
憧れの自慢焼き屋はいつも行列していた。白くて薄い生地の紙袋に入れてもらい、昭和41年ころにはすでにカスタードクリーム入り(もどきの黄色いクリーム。グローブ型のクリームパンに入っているのと同じ)があり、子どもだったので、餡よりクリームのほうが好きだった。黄色いクリームというのは加熱すると味が変わる。また、とてつもなく熱くなる。子どもの舌には熱すぎてフーフー吹きながら食べていたが、どうかするとペロンと皮がむけるほど口の中をやけどした。タイヤキ屋ははっきりいって千葉市にはなかったと思う。あれは確か昭和51年ころに「泳げ!タイヤキくん」という児童曲が流行したときに千葉薬品という地方スーパーにできたテナントで初めて食べた。
「喫茶店経営」(柴田書店、昭和41年夏号)によれば、自慢焼は、高崎の富士屋茂原商事が昭和10年にはじめたとのことだ。由来はわからないが「味自慢」であろう。昭和41年からはちょうど餡一辺倒ではなく、ちがう種類のアン4種をメニューに加える(何餡かは不明)など、バラエティ化をした年らしい。クリームや、うぐいす、こしあん、しろあんなどはこのころからあったのだろう。
●さらにさらに、御座候とは?
関西では「御座候」。「ござそうろう」という名前が今川焼きを示すことばのひとつらしい。姫路が発祥で、昭和25年に回転焼業を開業した「御座候」がその発信店だ。「お買い上げ賜り、ありがたく御座候」という感謝の言葉が由来だという。いまは姫路だけではなく栃木県から広島県まで計79店舗の直販店を数える。
●今川焼はタイヤキの元祖である
江戸中期の安永年間(1772〜80)頃から神田の今川橋付近で売り出されたので「今川焼」という。戦国時代の武将、今川家の家紋に似せたからという説は誤り。
人形焼きは、明治元年に浅草の木村屋本店が創製した。初代が浅草の名所にちなんで考案したのが、五重の塔・雷様・提灯・鳩の四つの型であった。
今川焼きと人形焼がドッキングして生まれたのがタイヤキである。明治42年に港区麻布十番の浪花屋総本店が創出した。浪花屋という屋号からわかるとおり、創業者の神戸清次郎は大阪出身で、銀行家の息子。東京で今川焼きを売りはじめたが、それでは芸がない。そこで人形焼のような工夫をして、亀の形をした今川焼き「亀の子焼き」を作りだした。ところがこれがまったく売れなかったため、当時は高価で庶民の口にはなかなか入らなかった鯛をかたどることにしてタイヤキを創案したという。
「およげ! たいやきくん」はここの鯛焼きがモデルになったといわれている。
●小資本で可能な今川焼屋の開業
戦後の街角に今川焼き屋が増えたのは、小資本で開業できるからである。鉄板などの設備投資があるので駄菓子屋よりは元手がかかるかもしれないが、店舗の坪数は4坪もあれば十分で、なにか小さな商売をと考えたときに候補にあがるもののひとつだったのだろう。そこで、古本で「開業案内」「商売往来」のたぐいから、今川焼きに関する記述はないかと探してみた。
昭和21年の「新職業百話」には、今川焼きは「今川焼き(巴焼き)饅頭」として登場している。このころから「焼き」と「饅頭」両方があったのかと思ったが、どうも「焼き饅頭」というニュアンスのようだ。そりゃ上州だろ。同書籍は、失敗が少なくて素人に向き、元手が少なくてすむ商売として今川焼きを勧めている。このころは、店頭売りの他、会社や官庁などへの訪問販売、喫茶店や汁粉屋への卸売りの需要があったらしい。
戦前はどうだろう。昭和10年の「小資経営 職業相談」という本には、「今川焼きといえば、「ああ、あの赤暖簾の横丁の店か」と誰しも気のつくほど今川焼きの名は世人に言い古されている」というくだりから紹介されている。「黄金焼、義士焼と製造は似たり寄ったり」とあり、このころから独自のネーミングは発達をはじめていたようだ。まったく同じといわずに「似たり寄ったり」としているのは、今川焼きが大判形状で、他が真円形状だったからではないか。そして、円形の焼き菓子の名前において「今川焼き」が元祖であるということは次の記述からもうかがえる。
「この種の食べ物のうち、今川焼きが元祖であり、また一番通りのよい名である」
この本では店頭売りのほかに店内にテーブルといすを用意し、1皿4〜5個盛りで5銭で販売するようであるが、男一人で今川焼きを4つ食べるのはなかなか至難のわざだろう。
利益は純利で2〜3割で、順当なところでは300個あたり50銭。立地にもよるが内輪で安く見積もっても一日に600〜900個売れるというから、最低でも一日1円は儲かるという。当時、1冊50銭の少年雑誌は3000円から5000円くらいの価値であったらしいから、純利6000円〜1万円はあったということか。
なお冷暖房が完備していないこの時代では、暑い季節、寒い季節に合わせた商品を売るのは当たり前のことであり、夏場は今川焼きは売れないので氷屋さんに変わりなさいとアドバイスしている。
昭和33年の「1万円から80万円までの開業案内」には、どらやき屋が紹介されている。どらやきといえば一流の和菓子屋のどらやきを想像するが、ここで紹介されているどらやきは、街頭で通りかかったひとに一個7〜10円で販売する程度の安価などらやきで、砂糖ではなくズルチン使用である。銅板の焼き板にタネを流すが、窪みはないようで、平たく焼いたタネ2枚で餡をはさむ。高級和菓子としてのどらやきではないので、これも小資本で開業できる今川焼き屋の一種かと思われる。
いやいや、足を踏み入れたはいいがなかなか解明は難しい。結局わかったのは、今川焼きはポピュラーな名前ではなく、地域で名称が異なること。その名称は、店単位で発生し、店の人気度やチェーン店化によって呼称面積も比例して拡大されること。機械式の小ぶりな「都まんじゅう」と今川焼きは混同されている気配があること。くらいであった。
では、次回はなぜ、薬局で天津甘栗が売っているのかという疑問を解明します。(たぶんクスリヤからリを抜いたらクリヤになるからでしょう<意味不明>)
●書き下ろし
2004年2月27日更新
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[ノスタルジー商店「まぼろし食料品店」]
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第8回「参天製薬」の巻
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