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ナショナル自転車のカタログ

第15回「子どもの移動距離と文化の深浅」の巻

日曜研究家串間努


ナショナル自転車

 自転車はたいてい半年に一度くらいの頻度でパンクするものだった。地方都市だと、道路の舗装が整ってきたのが、だいたい昭和50年代の初めだと思う。私はなんどもパンクするので、自転車屋のおじさんの手わざを見てパンク修理を覚えてしまったクチで、今でもなんとか直すことができる。
 高度成長時代の子どもが怪我しやすかったのは、半ズボンを履いている子が多かったというファッション性の問題や、ガラスや釘など道に建築資材の残滓が落ちていて、怪我が拡大しやすかったことが挙げられるのと思うが、自転車のパンクも結局は道悪が理由だ。
 昭和40年代のパンクの修理代金は確か250円から350円くらいだった。
 自転車屋のオジサンは、まず空気を入れる虫ゴムを取外すと、タイヤレバーを2本、タイヤとホイールの間にかませ、中のゴムチューブをうまく引っ張り出した、それを古い中華鍋に入れた水に入れながら、丹念に泡が立つ部分を探した。ヘタすると2ヵ所くらい同時にパンクしていることがあった。空いた穴を見つけるとその部分を、自作の木製の台に載せ、幅が短い金属ローラーで丹念にこする。次に紙やすりでみがく。そこに、シンナーくさいゴムノリをつけ、銀の台紙からはがした黒い絆創膏か自転車のチューブを小さく切って、面取りしたものを貼った。そしてまたローラーでグリグリと密着させてできあがりだ。そのあとにタイヤのゴムの中にチューブを押しこむ手際はまるで、外科医の手術のようだ(見たことぁありませんけどね)。

ナショナル自転車

 自転車屋には、パンクの修理持ち込みの他、いろいろなお客さんが来た。子どもたちのあいだではその時その時によって、自転車に後付けで装備する小物アクセサリーの流行が変わる。昭和40年代は「サイクリングブーム」を受けていたため、工具バッグ、チェッカーフラッグ模様のバックミラーや、黒いスピードメーターは定番にしても、タワシボールやブザー、チンカンベルなどは世代によっては知られていないかもしれない。
 タワシボールとは、何色も色で染め抜いた棒状の亀の子タワシのようなものを車軸(ハブ)に巻き付けるものだ。自転車を漕ぎながらタワシが回転して、ハブが掃除され、ピカピカになる効果を狙っていたようである。ハブにソフトボールやテニスボールを挟むヤツがいたが、こっちのほうの用途目的の訳はまったくわからない。単なる物入れという意味合いと考えるのが一番素直である。ハンドルに風車を付けるなどの玩具系で流行したのは「バイバイハンド」である。手のひらの形をしたオブジェがユラユラ揺れるもので、常に相手に「さようなら」の信号を送る。おそらく車のリアウインドウに取り付けるカーアクセサリーから自転車に応用されたものなのかもしれない。意味が特になくても面白ければ子どもはOKだ。かなり後では、スポーク一本一本に筒状のものをはめ、車輪が回るときにそれらが上にあがったり落ちたりするものもあったが、意味はやはり不明。

自転車の広告
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 児童車ではなく、セミドロップハンドル仕様のスポーツ車の場合は、後部のハブの外側にメスネジが切ってあって、そこに、金属の棒の先が黄色のプラスチックになっているのを立てている子を見たことがある。反射板の機能をもっていたのだろうか。また、単にそこに七センチくらいの金属の棒を伸ばして、2人乗りをするときに後ろの子の足置き(フットレスト)にしているものがあった。これらはある程度実用的なので理解はできる。

自転車の広告
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 自転車があると、子どもは行動範囲が広くなる。だが、いまはその必要性はない。市街地は空洞化して、個人商店はない。郊外店が発展しているから車でトイザラスやファミレス、サティなどのショッピングセンターに行くのがライフスタイルのひとつとして定着している。身近に歩いていける商店ではなく駅ビルやデパート、ファッションビルが子ども消費文化の中心を担っている状況がある。

 徒歩圏での遊び文化と自転車圏で広がる遊び文化は明らかに違う。地元に建っている駄菓子屋は「徒歩圏」に於けるローカルな流行の発信基地で、各地の地元に現代における「女子高校生の渋谷」が小規模にあったようなものだ。その「点」の一つ一つが兄弟や塾などの「線」関係でつながって、流行の同期性を地域を広げて作り上げていた。特に自転車は流行エリアの拡大と情報入手のための最大の武器であった。何キロメートルも離れたところに安価な値段で手軽に移動できる。そしてそこには地元とは微妙に異なった品揃えの駄菓子屋があり、店頭に集っている子どもたちの遊びのルールや種類もまた違っていた。高学年児童が自転車によって地域移動し、他の子ども集団の文化を地元の低学年児童にもたらす。それは、まるでハチやチョウが花粉を移動させるようなものだ。

 繰り返しになるが、昭和40年代当時の駄菓子屋はキディランドであり、渋谷マルキューの萌芽であった。その享楽と消費の体験が、長じて、電車による「原宿」遠征、そしてその流れが現在の女子高校生の渋谷集結ということにつながるのではあるまいか(もちろんメディアの誘導もあるけれどね)。

 それにしても、愛想がいい自転車屋のオジサンというヒトをあまり見たことがない。床屋さんも寡黙なヒトが多かった。同じ自営業でも客を「待っている」ヒトというのはあまりニコニコしないものなのだろうか……。

 昔は「読み書きそろばん」であり、そろばんができることは立身出世の第一歩だった。働く上での実利上ではそろばん塾も学習塾も目的はおなじなのだ。戦後の日本は高学歴社会の到来で、学習塾産業が伸び、子どもから『遊びの時間』を奪った。その結果、駄菓子屋と秘密基地を中心とする空き地文化が衰退していくという構図に子ども社会全体が変わっていったのである。

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書き下ろし


2004年8月13日更新
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