●「けいすうき」が元祖
実は「算数セット」というのは戦前からある、当時は「算術(算数)教材」だ。算術・算数の教科書が、四則演算をおはじきやお金の図解で説明しているのをみて、リアルな商品化を誰かが思いついたと思われる。
当初はそろばん状の「けいすうき」(計数器)といわれるものが算数教材の主軸だったが、算数の教材教具は各地で多くのモノが工夫されたため、色板や数え棒、おはじきなど使いやすいものがだんだん精選されて残っていったのだろう。それらの教材を教師や児童が自作するのは大変なので、単品で商品化され、さらに誰かが『算数セット』『おけいこどうぐ』として算数教材をひとまとめにしたものと思われる。いったいいつ誰が作ったかのかというルーツを特定するのは難しい。
戦後すぐのものと思われる「さんすうのとも」という製品は、メインが木製のそろばん状計数器であり、それがふたとなっている。箱のなかには、紙時計、数カード、竹棒、サイコロ四個、木角材六個、木のチップなどが入っている。
また、海外の教材で「ウインストン算数教具」というのものがある。これは、各種の教具の組み合わせで、かぞえ円板・10のかず玉・20のかず玉・位とり計数器・分数板・四則学習盤・ウインストン時計板・百のかず玉などがある。ウインストン氏は世界の算数教育研究の権威者らしいが、この内容は算数セットに酷似している。ここから教材会社がヒントを得たものではないかという推測も成り立つ。
私の親(昭和十一年生まれ)も「確か『けいすうき』っていってたね。おはじきはガラスで。1銭銅貨を模したお金、三角形の板、木の棒などが入っていたかな。時計……はうーんあったような気もするけど、よくわからない」という。
当時は先生から「明日はけいすうきを使うので持ってきてください」といわれた時だけ持参して、「ほとんど使わなかった」という記憶が強いという。「いちど箱を開けたら他人のおはじきが入っていてびっくりした」という記憶から戦前からひとつひとつに名前を書いていたらしい。ただここで「けいすうき」と呼ばれているものは狭義の「計数器」単体ではなく算数セット全体の通称としての意味である。すでに戦前から「けいすうき」といえば「算数セット」のことをさしていたのである。
「計数器」と呼ばれるものは各種ある。おもにそろばんの珠のようなものを使って、加減乗除を具体的直感的に覚えられるものである。「計数器」という名前は、特許庁のデータベースを検索すると、明治三十五年からつかわれていた。明治三十年代の計数器は「教育玩具算術器」や「九九ひとりおぼえ」などの、個人が勉強するための算術補助教材であり、教室の集団で共通の教材を使って算術を習う補助道具ではなかった。また、明治四十一年には分数の教授用具ができているが、これは教師用であった。このころの算術教材はまだ個人的に購入したり、学校側の備品として全児童が共用するものではなかったようだ。
「児童用」をうたう「計数器」が登場するのは明治四十二年。秋田の奈良吉太郎の発案になるもので、サイコロの六面に野菜・動物などのイラストが描かれたものが十八個、箱に収められている。同年、「小学校児童用計数器」も山口県の弘中彦三郎より実用新案がとられている。のちには計数器はそろばんの珠状のもので数取りするものを指し、「百珠計数器」、「児童用三線計数器」が代表的なものになっていく。
大正七年になると、紙製の計数カードがでてきて、面子のようなものに数字や数字分の黒丸をしるしたカードが用いられるようになった。これものちに算数セットに収録されるようになる。
戦後になるともっとわかりやすい。文具の業界新聞から発売状況を拾うと、
昭和二十三年 株式会社原田屋「三和算数セット」発売
昭和二十四年 新日本教材株式会社「算数せっと」発売
昭和二十五年 モハン教材株式会社「けいすうき」発売
という感じになる。
戦後すぐから算数セットを作っていたという老舗メーカー、大阪の誠文社に話を聞いてみたことがある(詳細は拙著「昭和40年代思い出鑑定団」ぶんか社、199X、絶版、に所収)。
同社創業者の永橋平吉氏は、小学校の校長先生だったが、終戦後、退職。教員の経験を生かして事業を起こすことにした。戦後直後は物資不足で満足な教具が教室にはみあたらない。子どもたちに教材を与えなければという心で、教材会社を設立した。原材料が不足するなか、俳句仲間の親友の資産家に応援を受けて商品化に着手。まず教師用指導テキストを作成した。そして算数セットだ。昭和二十三年には確実に発売していたという。基本的な教具の原形は当時からあったので(戦前の計数器に範をとったのだろう)、カードは紙で、サイコロは木、数え棒は竹でつくった。おはじきは丸い棒を薄く切断して染料で塗った。お金はボール紙をトムソン加工で打ち抜いたもの、時計は紙製で、針も紙で出来ており、中心を割りピンで止めて回転できるようにした。これらを内職で貼ってもらった紙袋に詰めて発売した。
ボール箱に入ったのは昭和二十五年頃からという。材料は紙から金属へ、そして昭和三十年代になってプラスチックに変わって行く。昭和五十年代にはおはじきに磁石がついてボードに簡単に止められるような工夫もなされ、昔と今とでは大違いだ。昭和三十年代からは生産は機械化されているが、それでも箱詰め作業だけは平成の今でもまだ人力に頼っている。農家の農閑期に和歌山で手詰め作業を行っているという。
少子化といって、今、子どもの数は減っている。それでもメーカーでは、「教材会社としてもちろん今後も生産していきます。これからも改良を重ね、時代に見合ったものを作っていきます」と胸を張っていた。子ども自身が手にもって自分で考えることができるし、家庭に持ち帰って親子のコミュニケーションも図れる教材なのだ。平成十七年には、「人生ゲーム」や「魚雷戦ゲーム」など、電子ゲームではなく、対戦相手が必要なボードゲームを買う親が増えたというプチブームがあった。算数セットも今後親子三代、四代と受け継がれて行くことは間違いない。
●書き下ろし
2006年7月13日更新
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