だいぶご無沙汰してしまったが、先日、昨年訪れた石神井川沿いの桜を今年も花見と洒落こんだので、拙ミニコミ誌11年夏号『戦跡商店喰い』で取り上げた板橋区加賀の陸軍工場跡地の補足も兼ねてレポートしたい。

板橋区の加賀という地はその名の通り嘗て加賀藩の下屋敷のあった土地で、金沢など石川県に因む名が随所に残っている。
43_01.jpg 明治以降にその7割方が軍用地となり、未だ往時の痕跡を色濃く残しているが、特に石神井川沿いは、川の水力を使って弾薬に用いる火薬を磨り潰す圧磨機を回していたので、転用された火薬工場跡が多く残っている。

場所は都営三田線の板橋本町近くにある、板橋の名前の由来となった板の橋から、JR埼京線の十条あたりまで続く石神井川沿いに、満開の桜がしだれかかる。
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途中途中にある公園では控えめながらボンボリが掛かり、一応花見宴会も盛り上がるようだが、基本、川の沿道は宴会が出来るような雰囲気ではなく、道行く人々もまばらで、ゆっくりと間近に桜が鑑賞できる。
43_04.jpg 都内でも数少ない、のんびりとした静かな桜鑑賞スポットとして、実に穴場だと思う。
43_05.jpg 花に見とれていても、その隙間から覗く歳月を経て黒ずんだ煉瓦塀がいくつも、嫌でも目に付く。
43_06.jpg 中でも加賀橋の袂にある旧火薬庫跡、歯科技工専門学校の一部校舎は、南国趣味の樹木と共に、そのコンクリートの黒ずんだ迫力は一際迫力を増している。煉瓦塀とはまた違った存在感だ。

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昨年取材時はその外観だけだったが、今回の記事では内部もお見せしよう。
内部は改装され、卓球台などが並んでいたので、専門学校の体育館かレクリエーション施設となっているようだが、一部自転車置き場だけ往時の姿が残されていた。
43_11.jpg チープな表現で申し訳ないが、戦争映画のセットの如く、市民が非難していそうな空間だった。
43_12.jpg 焼けただれた肌のような壁面を窓からの明かりが照らす空間。
43_13.jpg 先ほどの満開の桜とは真逆のような、ひんやりと冷たい空気が充満していた。

しかし桜でさえ、梶井基次郎ではないが死体を連想させる妖気のような、一種、負のイメージがまとわりつくから、あながち戦跡とは相反するとも言いがたいかもしれない。
宵闇に浮かび上がる火薬庫跡をバックに夜桜見物もまた感慨深いかもと、なんだか思えてきてしまう。
爆弾は檸檬ではなく本物の弾丸だったわけだ。

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No.91No.103にひきつづき、水洗マッチをご紹介します。今回は、明治5(1872)年に、東京で最初に発行された日刊紙『東京日日新聞』(現在の『毎日新聞』の前身)のマッチケースです。ご覧ください、思わず「月の沙漠を~はるばると~」と歌ってしまいそうな、夜の砂漠の絵が描かれたマッチケース。人が寝静まっている夜の間も、らくだとともにもくもくと歩く人のように、たんたんと新聞をつくっているというイメージで、このパッケージなのかしらん? と思ったのですが、どうなのでしょう。たぶん、なにかしら意味があると思うのですが、パッと見た時は、ちょっと暗いデザインだと思いました。

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横の2面にも、砂漠の絵が描かれ、正面には『東京日日新聞』の文字が、右横書きで描いてあります。箱の大きさは、縦60ミリ、横90ミリ、高さ35ミリです。

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そして、裏面には『大阪毎日新聞』、『點字新聞』、『エコノミスト』、『サンデー毎日』、『東京日日新聞』の文字がズラリ。それぞれの創刊した年を調べてみると、『大阪毎日新聞』は明治21(1888)年(前身紙『大阪日報』は、明治9(1876)年創刊)。『點字新聞』は大正11(1922)年。『エコノミスト』は大正12(1923)年。『サンデー毎日』は大正11(1922)年。『東京日日新聞』は先にも書きましたが、明治5(1872)年です。いまさらながら、現在も発行されているそれぞれの新聞、雑誌を思うと、歴史の深さに感心するのですが、『東京日日新聞』が、『毎日新聞』に改名されたのが、昭和18(1943)年なので、このマッチケースは、大正12年から昭和17年までの間につくられたことになります。

そういえば、童謡『月の沙漠』が発表されたのが、大正12(1923)年ですから、この絵柄は、『月の沙漠』の歌詞をイメージして描かれたのかも知れませんね。製造年もそのころと考えて、間違いないのではないでしょうか。

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No.103の瀧口屋水洗マッチと同様に、このケースにも、側面にマッチを擦る薬板がはめ込んであります。

 

おまけ

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『月の沙漠』が歌われた頃から、ここに立っていたんだろうなぁと、見上げた美しい巨木たち。小石川植物園にて。

 

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最初に見たのは歴史の教科書だったでしょうか。終戦後、シラミやチフスを撲滅するために、進駐軍によって、頭から白い粉をふりかけられる人々の写真を見たのは‥‥。あまりにも有名な殺虫剤の白い粉、その名も"DDT"。骨董市で、そんな"歴史の産物"ともいえる、DDTに出会った時は、本当に驚きました。それも、味の素でもつくっていたのですね。

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農薬ネットの中の"殺虫剤DDTの歴史"を読んでみると、DDTって、昭和20(1945)年代から昭和46(1971)年まで、日本では使用されたそうです。

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箱の大きさは、高さが115ミリ、横幅が100ミリ、奥行きが70ミリです。真っ赤な紙箱には、「強力殺虫剤 德用函 500g」と明記されています。

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私にとって殺虫剤の思い出といえば、実家の庭に置かれたラベルのない複数の一升ビンです。私が幼少の頃、明治生まれの祖母がつくった庭には、杏、梅、みかん、きんかん、いちじく、ビワ、桃、ぐみ、ぶどう、柿と、美味しい実のなる木が、たくさん植えてありました。それらを食べることは、楽しみではありましたが、虫もたくさんやってくるのです。そこで、一升ビンの登場です。ビンの中には薄められた殺虫剤らしきものが入っていて、祖母は杏などの木についたカナブンやカミキリムシを見つけては、頭をもいで、ビンにポイポイ入れていたのでした。ビンの中に黒い虫が増えていく様子は、子供心に不気味だったなぁ‥‥。でも、おかげで木から直接実を取って食べる経験を重ねられたのですから、今となっては感謝です。

 

おまけ

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三浦市の神社にて。うれしそうなケロちゃん。 

  

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