写真判定男、中村剛
プロボクシングとは、実に骨の折れる過酷なスポーツであると思う。一試合を行うと、二、三ヵ月は休養しないといけない。といっても練習は毎日やるだろう。
その世界で長く活躍するのには、その選手の独得の企業秘密があるに違いない。中村がデビューしたのが59年3月、リングを下りたのが70年2月だから約11年もボクサーを続けたことになる。しかもこの人は、デビューから4連敗、5戦目の林宣夫戦で初勝利だから並の根性ではない。60年11月は、海老原博幸に負け、翌年1月にも原田政彦(のちファイティング原田)にも敗れた。普通のボクサーなら、とっくにへこたれていた。
勝っても負けても1〜2ポイント差、そこから所属ジムの若松会長が付けたのが写真判定ボクサー≠ナある。東洋(現OPBF)フライ級チャンピオンになりながら、こんなにKO勝ちが少ないボクサーも稀だ。
ほとんどが判定試合なので、典型的なアウト・ボクサーかと思われる。しかしてその実体は、リーチも短く相手の懐にもぐり込んで、上下にショート・ブローを連打する以外、生きる道はない。後年のスパイダー根本を少しスマートにしたような試合振りか。相手に接近するから、結構いいパンチも食らってしまう。試合後は、傷だらけの顔で「参ったなあ」を連発して笑う。栃木県出身で、北関東で育ったしぶとさが漂うボクサーでもあった。世界チャンピオンになったチャチャイ・ラムファパーに2勝、バーナベ・ビラカンポとは引分で東洋王座を死守している。
超A級の原田、海老原、大場には負けたが、東洋王座を10回も防衛した実績は無視出来ない。惜しくも世界チャンピオンにはなれなかったが、その実力は世界のトップクラスに並ぶものであった。いつもジャッジが、首を傾げながら採点をしたエピソードはこの人ならではで、名ボクサーの一人だ。
生年月日 昭和18年3月18日
出身地 栃木県真岡市
44 勝(5KO)21敗9分け、東洋フライ級10度防衛。新和ジム所属、得意は左右のショート連打 |
柏鵬時代の反逆児、若羽黒朋明
”たこでーす”たこ八郎
重厚味満点の悪役、高品格
褐色の弾丸・房錦と潜航艇・岩風
黒い核弾頭、ルーター・レンジ
南部のタッグ屋、グラハム&ステンボート
女をなぜなぜ泣かすのよ、城卓矢
教師から俳優へ、戸浦六宏ロッコウ
フックの職人、勝又行雄
当たり役、沢田部長刑事の芦田伸介
名タッグ屋ハードボイルド・ハガティ
名唱ジャイアンツを偲ぶ
2人のもろ差し名人
ニヒルな敵役・成田三樹夫
女性コメディアンの第一人者・若水ヤエ子
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2005年7月1日更新
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