少子化と都市化が進んでいる現在はどのような状況かわからないが、昭和五十年代までは、地域社会が、子どもたちの育成に手を貸していた。学校と地域も綿密なつながりがあって、運動会では「町内対抗リレー」があったし、学校のプールを夏休みに開放したときも、クラス単位ではなく、町内単位で、プールの日程を割り振っていた。私の地域では「集団登校・下校」という制度はなかったのだが、プールのときだけは、縦割りで学年を超えて近所の子どもたちが集まって登校したものだった。それは、「こども会」という活動単位だった。
学校には「児童会」という、中学でいうところの「生徒会」活動があって、役員を選出して民主的運営を学んでいたが、「こども会」というのは私にとっては遊びの会だった。クリスマスのときに公民館に集まってプレゼント交換をしたり(だから、家でクリスマスパーテをやる子どもにとっては学校・地域・家庭と3つのクリスマス会に出席するので嬉しい一日だっただろう)、春や秋にバス旅行をしたり。
子どもが戸外で遊んでいた時代、その遊びの集団の単位は、学校つながりの同級生(昼休みの遊びが放課後に延長)あるいは、地域つながりの近所の子ども同士という形である。しかし子ども会は、その両者をも含む形のグループ形成であるから、子どもながらに同級生を地域の年上の子に紹介したり、自分の兄弟姉妹と一緒に行動することに気恥ずかしさを覚えたりと、人的ネットワークの「揺さぶり」が非日常的に感じられた。それぞれのメンバーはいつも遊んでいる、知っている人であるのに、人的結合を組み替えることで、あたらしい世界が広がったような不思議な空間が「子ども会」であった。
役員はお母さんがたがやっていて、夏休みのラジオ体操の運営もこども会が行っていた。役員の子どもは、遊びでつながっている子ども集団のなかに「家族」が入り込んでくることが、誇らしくもあり、照れくさくもあり、だったろう。
ところでこの「こども会」というのは全国的組織なのだろうか。そしていつから生まれた活動なのだろうか。
調べてみると、現在のような子ども会は終戦のときに生まれたようだ。都市部では空襲で焼け野原になり、物資が欠乏している時代、大人たちは子どもたちだけには飢えや貧困を味あわせたくないと考え、児童愛護のために地域活動を行ったという。地域ボランティア活動のさきがけともいえるだろう。誰が提唱しはじめたかも定かではない、自然発生的な福祉活動が、戦後の混乱状況を背景に全国に期せずして広がっていたのだった。そして浮浪児や孤児の発生とともに昭和二十一年秋、文部省は「青少年不良化防止対策要綱」を通達、子どもの不良化防止のために地域で実施するべき事業を示した。
続いて社会教育局長から「児童愛護班」結成活動に関する通知が出たが、公的にはこれが子ども会結成のはじまりである。昭和二十三年には厚生省児童局が「児童指導班結成及び運営要綱」を作成して各都道府県にこども会の結成を指示、昭和三十九年には全国の指導者が集まって「全国子ども会連合会」が生まれるまでに大きく育っていった。昭和三十四年ころの東京では、盛り場を持つ地域ではこども会活動は活発だったが、住宅地周辺ではあまり組織化ははかばかしくなく、発足してすぐに活動停止するような状況にあったという。
●小五教育技術2月号を改稿
2004年11月16日更新
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