第8回「クリープ」の巻
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森永の『クリープ』にはほろ苦い思い出がある。
いつもは母方の親戚の家にばかり遊びにいっていたが、法事かなにかの集まりで、父方の親戚が東京のおじさんの家に集まったことがあった。いつもとは違うおじさん、おばさんたちといとこたち。子どもの私はなんとなくうれしくて有頂天。三時ころになったとき、おばさんが「ホットケーキをつくりましょう」といって作ってくれた。そして「ホットケーキにはコーヒーね」ということに。テーブルにはネスカフェと一緒に黄色いビンが並んだ。新しもの好きの私は「なにこれ?」ときき、やらせてやらせてとスプーンを握った。ところが私はビンを倒してしまった。ザーッとテーブルの上に広がるクリーム色の粉。当時は、現在よりも物を大事にした時代だ。クリープなどという、自宅ではみたことがない貴重な食品をバラまいてしまった私は、大いにあせり、泣きそうになってしまった。まるで真珠のネックレスをバラバラして床にこぼしてしまったような喪失感であった(そんなことしたことないけど)。おばさんは「いいのよ、いいのよ」といってくれたけれど、今度はその優しさが身にしみて、こらえてもこらえても、涙が出てくるのを止められなかった。悲しいときには声をかけないでもらいたいものだ。
森永乳業がコーヒー用クリーミングパウダー『クリープ』を発売したのは昭和36年。もともとは同社の重役が、昭和26年にアメリカで粉末クリームパウダーが開発されたことを雑誌記事で知ったことに端を発する。さっそく在米社員に製造のノウハウを調査することが命じられた。そして紆余曲折を経て、乳児用の粉ミルクを製造していた同社の技術力で、基本的な製造方法は昭和29年に完成した。しかし、当時はまだコーヒーが家庭に普及していない。発売しても使い道の需要がない。しばらくクリープは眠りの時代に入るのであった。
眠りを破ったのが昭和35年。このとき国産のインスタントコーヒーのさきがけが同社かを含めた数社から発売された。「赤ラベル」のコーヒーは多いに売れ、会社トップは「今こそクリープを世にだそう」とゴーサインをしめした。
当初、なかなか消費者が商品を理解してくれなかったが、イラストにコーヒーを入れたラベルにしたことで認識も改まり、インスタントコーヒー時代の到来とあいまって大ヒット。
昭和44年には芦田伸介を起用し「クリープを入れないコーヒーなんて」という流行語も生んだ。
牛乳を原料として作っているパウダーなので甘いミルクの香りとまろやかさがコーヒーと相性が良い。数あるクリーミングパウダーの中でも乳製品でできているのはクリープだけだ。
80年代になって他社からポーションタイプのミルク(『スジャータ』など)が出たときは打撃だったが、平成3年にはクリープもポーションタイプのものを出し、平成11年にはスティックタイプを発売するなど、レパートリーが広がっている。
「植物性脂肪のほうがコストは安くできるのですが、クリープは乳製品にこだわっています。カロリーも植物性より低いのです。平成2年に『クリープだけが乳製品でできています』と訴求したところクリープファンが急増しました」(森永乳業株式会社)
また、消費者からの希望もあり、省資源、ゴミ減量化のため詰め替え用も発売している。
親子二代のファンも多くなってきた。「カレーにまろやかさを出すために入れたり、シーザーサラダに混ぜるかたもいらっしゃるようです」
中身と品質を守り続け、そのなかで新しい嗜好のユーザーを掘り起こしながら、日本人にマイルドにコーヒーを飲む習慣をつけさせた舞台裏の立役者である。
●毎日新聞に掲載のものを改稿
2004年8月2日更新
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