第22回 消えていった焼玉船(ポンポン船)
昭和30年頃、船溜まりに足を運ぶと「ポンポン」と煙を上げる焼玉船が数多く見られた。威勢のいいその音は、港の活気を計るバロメーターとなったが、高度成長期に入ると焼玉船は小型ディーゼル船に取って代わられ、消えていった。今回の昭和のライフでは、そんな焼玉船の歩みを振り返ってみたい。
1.焼玉機関の誕生とその原理
18世紀後半、イギリスのワットが蒸気機関の改良に成功した。これをきっかけとして、人類は様々な燃料を用いて機械を動かそうと試みた。木炭ガスや天然ガスを使うガス機関、ガソリンを燃料とするガソリン機関、灯油や軽油を燃料とする石油機関、重油を主燃料とするディーゼル機関、ウランを燃料とする原子力機関などが発明されていったが、焼玉機関はそんな試みの途上で生まれた内燃機関である。それは、石油機関とディーゼル機関の中間の特長を持ち、「セミ・ディーゼル機関」とも呼ばれていた。
焼玉機関の最大の特長は、名前にもある「焼玉」を使って燃料(主に重油)を燃焼させるところにある。機関を始動する前にバーナーで焼玉の部分を加熱しておき、燃料が発火する温度まで上げておく必要がある。加熱にかかる時間は10〜15分程度。十分に暖まったところで、燃料を焼玉に噴射してシリンダー内で爆発させる。
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「焼玉機関の構造図」
(大山文武『焼玉式発動機』海文堂書店 昭和7年より) |
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焼玉機関が画期的だったのは、それまで使い道のなかった重油を内燃機関の燃料として使えるようにしたことだ。石油から精製した灯油、軽油、ガソリンなどは気化器を使って霧状にできるため、シリンダー内に供給して電気点火で着火することができた。しかし、それらを精製した残りでできた重油は、粘性が高く、気化器で気化することは難しかった。そこで、液体のまま焼玉に直接噴射して爆発させる方法が考え出された。重油が安価だったこともあり、焼玉機関はディーゼル機関が普及するまでの間、各方面で使われた。
2.日本への渡来と改良
石炭を燃料とした蒸気機関が社会のあちこちで使われていた明治36年、新潟県で石油の採掘をしていた日本石油(株)が、油井掘削の動力用として米国から「ミーツ式(ミーツ・エンド・ワイズ式)」と呼ばれる焼玉機関を輸入、これを手本にして付属工場(明治43年、(株)新潟鐵工所として分離独立)で生産を開始した。これは一企業の動向であるが、日本で焼玉機関の製作が始まったのは、おそらくこの頃であろう。明治30年代末、石油機関や焼玉機関は精米、製材、ポンプ、各種工場の動力向けとして全国的に急速に需要が高まっていた。新潟鐵工所ではこの波に乗って業容を拡大していく。41年頃からは船舶用の焼玉機関を輸入研究して、中小漁船向けの焼玉機関を日本で初めて手掛けるようになる。焼玉機関を搭載した船、即ち「焼玉船」の誕生である。
焼玉船に使われる焼玉機関は初期にはミーツ型であったが、大正に入るとボリンダー型の生産が始まり、大正8年頃からこちらがメインとなった。初期のボリンダー型は焼玉の過熱を防ぎ、燃料の点火時期及び過負荷を調節するために、シリンダー内に燃料と共に清水を注入していた。(これを「注水式ボリンダー型機関」とか「注水式焼玉機関」と呼んだ)ところが、大型の漁船が出現したり、漁業地域が広がるにつれて、機関の出力をUPさせるべくシリンダー内の圧縮圧力を高くする必要が出てきた。圧力が高くなればシリンダー内の温度も上がるから、過熱防止のために使う水の量は増加し、シリンダーの摩耗が早まる傾向が出てきた。そこで、焼玉の一部を水冷し、圧縮圧力を高くして、燃料自体がシリンダー内で霧化燃焼する新たな焼玉機関が考案された。これを、「無注水式ボリンダー機関」、「無注水式焼玉機関」、「セミ・ディーゼル機関」などと呼んだ。この技術は小型船舶向けにも取り入れられ、大正12年春には15馬力から50馬力までの5種類の小型無注水式焼玉機関が新潟鐵工所から発売された。
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「無注水式舶用50馬力焼玉機関
大正12年 新潟鐵工所製) |
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3.ディーゼル機関の登場と焼玉船の凋落
焼玉機関が漁船用の機関として一世を風靡していた時代は短かった。大正8年、新潟鐵工所は我が国初の産業用ディーゼル機関として、100馬力の船舶用機関を製造した。翌年この機関を搭載した鰹漁船が就航し、その運転費用が焼玉機関の約70%に過ぎなかったため、当時の漁船界に大きなセンセーションが巻き起った。これ以降、中大型漁船にはディーゼル機関が搭載されていく。
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「第五福竜丸のディーゼル機関 昭和21年 新潟鐵工所製) |
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一方、燃費は劣るものの、ディーゼル機関に比べて本体価格が安く、取り扱いが容易だったため、小型漁船ではあい変わらず焼玉機関が使われた。だが、「ディーゼル化」という時代の流れは着実に進んでいた。昭和8年には(株)山岡発動機工作所(後のヤンマー(株))が世界初の小型ディーゼル機関を完成させ、11年になると水産庁が小型漁船をディーゼル化する方針を打ち出した。焼玉機関の命運は風前の灯となったのだ。
しかし、皮肉にも第2次大戦の勃発が焼玉機関を延命させることになる。ディーゼル機関の生産ラインは軍用に振り向けられ、焼玉機関が再び大型漁船にも使われるようになった。表2では、昭和16〜18年の大型動力漁船に占める焼玉船の割合を示す。この頃の焼玉船の割合は、36〜7%だった。
戦後になっても物資が不足勝ちだったため、焼玉船が珍重され、表3にあるように海で使われる動力付き漁船に占める焼玉船の割合は24年まで増加した。漁船のディーゼル化が本格的に再開したのは20年代半ばになってからで、その後、ディーゼル船の割合は年々増加していった。東京タワーが完成した昭和33年には焼玉船を追い抜き、大阪万博前年の44年には79.9%に達した。高度成長期、ディーゼル船は大躍進を遂げていった。一方、焼玉船の凋落は激しく、45年には割合が1%を切った。その後も減少は続き、平成12年を最後に焼玉船は姿を消した。
焼玉船はなくなってしまったが、幸いにも今日その音を聞くことはできる。以前「レトロスポットガイド『昭和チック天国』」で紹介した千葉県の浦安市郷土博物館(TEL 047−305−4300)では、昭和33年に製造された焼玉機関を江戸川の底から引き上げ、修理した上、土・日・祝日の14時から公開運転している。ご興味がありましたら、是非ご覧下さい。
[参考文献 |
長尾不二夫『新撰内燃機関講義下巻』義賢堂 昭和18年 |
中谷勝紀『誰にもわかる 焼玉機関』海文堂 昭和37年 |
『新潟鐵工所七十年史』 昭和43年 |
ヤンマー潟zームページhttp://www.yanmar.co.jp |
『世界大百科事典』平凡社 昭和47年 「焼玉機関」の項 |
『農林水産省統計表』農林水産省統計情報部] |
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2004年9月16日更新
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