第23回 なつかしの木橋
昭和40年代初頭、東京の近郊ではまだ木の橋を見掛けることができた。当時幼かった小生は、なぜか欄干から直接川面を眺めるのが怖くて、橋板の欠けた箇所からドキドキしながら下を覗いたものだった。その後、その橋は耐久性のあるコンクリート橋に架け替えられたが、今回の昭和のライフではそんな木橋の歩みについて見ていきたい。
1.木橋、石橋、鉄橋
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三条大橋
(『文芸倶楽部第8巻第6号』明治35年より) |
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文献に見える日本最古の橋は、大阪市猪飼野付近にあった「猪甘津橋(いかいのつばし)という橋で、仁徳天皇治世下の324年に架けられたという。(『日本書紀』)以後、橋は為政者や僧侶、篤志家などの手により架けられていった。橋の材料は木が主流で、石を使うことは珍しかった。橋脚に石柱を使用した最初の例は、京都の鴨川に架かる三条大橋で、豊臣秀吉の命で天正18年(1590年)に架け替えられた。石橋で有名なものには長崎の眼鏡橋(寛永11年、1634年)や東京の日本橋などがあるが、日本橋が石橋となったのは意外と新しく、明治42年になってからである。安藤広重の浮世絵『東海道五十三次』には、木橋として描かれている。
明治維新をきっかけに、外国人技術者によって鉄橋の工法が日本にもたらされたが、当初材料は外国から輸入された。国産第1号の鉄橋は、明治11年に東京の中央区の楓川に架けられた「弾正橋」で、工部省の赤羽製作所が製作した。この橋は、関東大震災後に江東区の富岡八幡宮近くに移設され、「八幡橋」と名を改めて歩行者専用の橋となった。現在、八幡橋が架かっていた川は埋め立てられて公園になっているが、橋は国の重要文化財に指定されて静かに余生を送っている。
2.関東大震災と自動車の普及の中で
大正12年9月1日、関東大震災が京浜地域を襲った。東京・横浜の道路橋は783ヶ所(その内訳は、木橋495、石橋144、鉄橋91、鉄筋コンクリート橋49など)あったが、半数以上が焼失した。実は鋼材の価格が高かったため、鉄橋の大半は鉄骨の構造の上に材木を敷いて人馬を通していたのだ。橋の焼失により、逃げ遅れた多くの人々が命が落とすことになった。これを機に、都市部で鉄橋や鉄筋コンクリート橋が盛んに架けられるようになった。震災後組織された復興局は、京浜間に地震に耐えうる橋を150ヶ所建設した。犠牲者が多かった隅田川には、永代橋(完成:昭和元年)、駒形橋、蔵前橋、千住大橋(同2年)、言問橋、清洲橋(同3年)、厩橋(同4年)、吾妻橋、白髭橋(同6年)、両国橋(同7年)が架けられた。
また、この頃自動車が普及し始め、その荷重に耐えうる橋を架けようという動きが国道を中心に出てきたが、本格化する前に第二次大戦を迎えて中断した。
3.木橋の戦後
第二次大戦が終わって4年後の昭和24年、当時の建設省は全国の道路橋の状況を調査し、『橋梁現況調』にまとめた。それによると国道並びに都道府県道に架けられた橋の総数は10万7053ヶ所、うち木橋は5万2224ヶ所で全体の48.8%を占めていた。
戦中から20年代前半にかけて鋼材やコンクリートが不足したため、急場をしのぐため各地で木橋が架けられていたが、20年代後半に木橋が破損してトラックが川に落ちる事故が発生、木橋の危険性が広く認識されるようになった。表2は、木橋の安全状況をまとめたものだが、鉄橋、石橋、コンクリート橋などの永久橋と比較すると、木橋が危険だったことがよくわかる。
国は、28年9月に「道路整備五カ年計画」を策定し、国道及び幹線道路で長さ100m以上あるいは古さが10年ないし15年以上の木橋を全て鉄橋に架け替えることにした。この措置により、一般国道のほとんど全て、都道府県道の約半数の橋が鉄橋になる予定だったが、実際はコンクリート橋に代替されることが多かった。表1のように、国道並びに都道府県道の木橋の数は、27年をピークに、30年以降急速に減少した。同様な動きは市町村道でも起こり、昭和43年には東京都千代田区最後の木橋「宝田橋」が鉄橋へと架け替えられている。
木橋の架け替えは、「木橋の老朽化」との競争だった。表2に見られるように、安全な木橋の比率は年々減り、荷重制限や自動車の通行禁止が必要な橋の比率は増加の一途をたどった。地元関係者は木橋の架け替えを強く望んだが、当局の予算不足からなかなかはかどらなかった。そこで、高度成長期、橋の予算を獲得するために地元政治家を先頭に陳情が繰り返された。今日では「利益誘導政治の一端」とクールに見ることもできるが、当時の人々にとってはまさに「死活問題」だったのだ。
4.これからの木橋
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昭和32年まで木橋だった東京・佃島の佃小橋(現、コンクリート橋。奥の朱色の橋) |
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平成14年時点で国道並びに都道府県道に架けらている木橋(長さ15m以上)の数は27ヶ所、橋全体に占める比率は0.05%に過ぎない。また、高速道路から市町村道まで範囲を広げても、その数は1458ヶ所、全体の1.0%である。道路橋として木橋が果たしてきた歴史的な役割は終わったということができる。
だが、木橋の将来は真っ暗ではなさそうだ。従来の木橋ではなく、木を張り合わせて強度を持たせた集合材を使った橋が近年開発され、国産材消費の見地から林野庁や関連業界が普及を目指している。当面は歩行者用の橋が中心だが、そのうち身近な公園や小川でなつかしい木橋を見掛けられるようになるかもしれない。
[参考文献 |
『世界大百科事典』平凡社 昭和47年 「橋」の項 |
松村博『日本百名橋』鹿島出版会 平成10年 |
三浦基弘・岡本義喬『橋の文化誌』雄山閣出版 平成10年 |
『朝日新聞』昭和43年3月17日付朝刊16面 |
『朝日新聞』平成6年6月21日付朝刊10面] |
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2004年10月28日更新
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