第5回 1957年(昭和32年)
「おとーさんが初めてテレビを観たのは1956年だったよね。それまでは、テレビが高くて買えなかったの?」
「それもあるけど、おとーさんが住んでいた広島はテレビ局が開局していなくて、観たくても観ることができなかったんだよ。広島はまだ早い方で、全国の県庁所在地クラスの都市でテレビを観ることができるようになったのは、1957年になってからなんだよ。それも民放はなく、NHK1局だけ。だけど、この頃から、街頭テレビからお茶の間へとテレビが普及しはじめたんだ。評論家の大宅壮一が、“今日のマスコミの在り方を見るに、大衆の喜びそうなものに何でも食いついていく。(中略)テレビにいたっては、紙芝居以下の白痴番組が毎日ずらりとならんでいる。ラジオ、テレビというもっとも進歩したマス・コミ機関によって、一億総白痴化運動が展開されているといってもよい”と痛烈に批判したのが、この年だったね。“一億総白痴化”という言葉は、以後、テレビの低俗批判の代名詞として使われるようになったんだ」
「そんなに、ひどい番組ばかりだったの?」
「大宅壮一が標的にしたのは日本テレビの『なんでもやりまショー』で、出演希望者に題名通り何でもやってもらう視聴者参加番組だった。“タビ先のクサリ縁”と称して、足袋を手の指にはさめてクリップを鎖のようにつなぐといった他愛ないゲームコーナーと、どっきりカメラのコーナーから成っていて、現在から見れば健全なものだよ。大宅壮一が現在の番組を観たら、一億完全に白痴化したというんじゃないかな。一方で、政治・経済・社会の問題を、経済評論家の小汀利得と政治評論家の細川隆元が辛辣に批評する『時事放談』とか、水俣病の原因をいち早く指摘したドキュメンタリー『日本の素顔』とか、現在のような後追いの報道番組でなく、事前に問題を指摘する硬派の番組や、国会討論会が放送開始されたのも、この年だった」
「おとーさんは、そんな番組は観ていなかったでしょう」
「ハ、ハ、ハ……、まだ子供だったんで、難し過ぎた。おとーさんが、よく観ていたのは、前年から始まった『チロリン村とクルミの木』、『お笑い三人組』、『ハイウェイ・パトロール』かな。『アイ・ラブ・ルーシー』も観ていたな。観客の笑い声が入っているのが珍しくて、内容より笑い声の方が気になってね。アメリカ人というのは、良く笑う国民だなァって感心したりして。後で知ったんだけど、あの笑い声は編集の時に、効果音として入れていたんだね。日本でも、同じような笑い声を入れたヴァラエティ番組があるけど、好きになれないね。『生活の知恵』とか『きょうの料理』もこの年から始まって、お婆ちゃんが観ていたよ。家庭を意識した番組作りが多くなっていったんだね」
参考資料:テレビ史ハンドブック(自由国民社)
2004年11月9日更新
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