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「昭和のライフ」タイトル

アカデミア青木

海苔ひび

第24回 江戸前海苔に栄光あれ


 東京は昭和初期まで全国一の海苔生産地だった。そこで採れた海苔は、「江戸前海苔」とも、「本場海苔」とも呼ばれ、最高級品として珍重された。しかし、都市化の進展による海の汚染や埋立、産地間競争などでその地位を失い、昭和37年に全面的に生産を終えてしまった。今回の昭和のライフでは、江戸前海苔を中心に発展していった日本の海苔養殖の歩みを取り上げる。

1.海苔養殖のはじまり

 海苔の養殖は江戸時代に始まった。その発祥の地は隅田川の河口付近といわれているが定かではない。海苔は潮の干満があり、かつ養分を運ぶ川が近くにあって、海水と淡水が適度に混じり合う所で育つ。そこに「ひび」と呼ばれる篠竹や木の枝を立てて、そこに付着した海苔を摘み取り、和紙を漉く要領で紙状の板海苔へと加工した。その海苔は浅草寺の門前で売られたため「浅草海苔」と称したが、江戸時代中期に生産の中心地は大森村(現、東京都大田区大森)周辺へと移っていった。大森の海苔は「御膳海苔」とも呼ばれ、将軍家に献上されただけではなく、江戸の名産として東海道を経て関西方面まで出荷された。製法は村内で長い間秘法とされ、他国に伝授する者には制裁が加えられたという。
 しかし、江戸時代も後期になると、新たな産地を興してその販路を一手に握ろうとする者が現れる。江戸・四谷の海苔商・近江屋甚兵衛は文政5年(1822)に上総国人見村(現、千葉県君津市)で、信州・諏訪出身の海苔商・森田屋彦之丞は文政3年に浜名湖で、大森出身の海苔仲買商・田中孫七は文政8年に駿河の三保村(現、静岡県静岡市三保)で、それぞれ養殖に成功している。新しい産地の海苔が江戸市中に出回り始めた当初、それらは味や品質面で大森産に劣っていたため「場違い物」と貶されたが、大森の「本場物」が不作の時に市中の海苔不足を補ったことから、次第に一定の評価を受けるようになった。また、幕末には海苔を藩の特産品にしようと諸大名が養殖を奨励したため、海苔の生産は全国へと広まっていった。
 明治に入ると、海苔は限られた階層の嗜好品から庶民の日常食へと変わっていった。明治初年、大森村は官軍に軍用金を納める代わりに新規の養殖場を開くことを当局に認めさせたが、これをきっかけに京浜地区の漁村が相次いで新規の養殖場を開場、海苔養殖のブームが起こった。結果、海苔の生産が増えて、庶民に手が届く価格になったのだ。ちなみに、海苔1帖の価格は、明治6年で10銭(当時の米価を基準にした換算で、現在の1605円に相当)、明治30年で10〜12銭(同、516〜619円に相当)。四半世紀で1/3になった勘定だ。

海苔養殖紀功の碑
川崎大師にある海苔養殖紀功の碑
(大師沖で海苔養殖が始まったのは明治4年)

 

2.養殖技術の発達

 江戸時代から明治初期にかけての海苔の養殖の手順は、以下の通りだった。
 (1)10月頃、「ひび」を漁場に立てる。
 (2)やがてひびに海苔が生えてくるので、ある程度の大きさに成長したら摘み取る。
 (3)摘んだ海苔は包丁でよく刻んで真水にとき、簀の子の上に乗せた型枠に注いで、和紙を漉く要領で漉く。
 (4)海苔を乗せた簀の子を天日で乾かし、板海苔の出来上がり。
 明治16年頃、千葉県の青堀村(現、富津市)に住む平野武次郎は、ひびを建て直すことによって良質な海苔を大量に収穫することに成功した。すなわち、塩分の濃い海域にひびを建てて海苔を濃密に発芽させ、次に川からの栄養分が流れ込む海域に移して育てたのである。ちなみに、前者の海域を「胞子場(タネ場)」、後者を「育成場」といった。この方法は一族の秘法とされたが、水産講習所の藻類学者・岡村金太郎教授の勧めもあって、明治30年に開催された第二回水産博覧会で公表された。この方法をいち早く導入したのは、江戸川河口に位置し、極端な海苔の豊凶に悩まされていた千葉県の浦安の漁民達で、導入の結果、当地の生産を安定させることに成功した。これをきっかけに、「移植法」は全国の注目を浴びることになった。岡村は、その後も海苔の植物学的研究、養殖理論の確立に努めるかたわら、移植の実地指導、胞子場の開発、後進の育成に力を入れ、日本の海苔養殖に多大な貢献をした。
 海苔の移植法と胞子場の開発によって、全国各地の海苔養殖は一層盛んになった。ところが、意外にも移植が最も盛んに行われたのは東京だった。維新後、東京の都市化が進み、地元での胞子付きが急速に悪化したためだ。明治35年頃から千葉県で胞子付けしたひびを移植するようになり、昭和16年には東京のひびの実に8割が移植ひびとなった。「本場海苔」の時代からは隔世の感がするが、他県の力を借りつつも、昭和初期までは東京が養殖海苔の収穫量で全国1位の座を占め続けた。

 昭和に入ると、従来のひびに代わって朝鮮で「浮きひび」が、東京湾では更に移植にも便利な「網ひび」が開発され、生産性が向上する。しかしながら東京の海の汚染は進む一方で、昭和10年代以降は東京に代わって千葉県が東京湾の海苔生産をリードすることになる。

 

3.江戸前海苔のたそがれと地方の台頭

スサビノリ
スサビノリ

 東京湾の海苔生産は戦後しばらく低迷したが、昭和25年に再び東京がトップになるなど、往年の地位を取り戻す。一方、海苔の養殖技術も発展し続けた。24年にはイギリスの藻類学者ドリュー女史によって海苔の胞子が貝殻に潜り込んで夏を越すことがわかり、この性質を利用して貝殻を海中に吊して胞子を採集する「人工採苗」の技術が開発された。また、27〜29年にかけて、繁殖力が強く、色艶も良く、一度摘んでからもよく成長する「スサビノリ」(銚子以北の外海水域に自然分布する)という品種が大森に移植され、従来養殖されていた「アサクサノリ」を駆逐しながら全国的に普及していった。
 高度成長期を迎えると、東京湾の浅瀬は次々に埋め立てられ、工場用地へと姿を変えた。表2のように、東京湾に面した東京、千葉、神奈川の1都2県の生産量の合計は、昭和30年以降、全国の5割を割り込み、急速に低下していった。昭和37年には高速道路の建設に伴って大森沿岸が埋め立てられることになり、ここに東京の海苔の歴史は幕を閉じた。千葉県側の漁場も大半はコンビナートとなり、現在、江戸川河口の三番瀬や木更津〜富津の沿岸の一部で続けられているに過ぎない。日本の海苔の中心地は東京湾から有明海、瀬戸内海へと移っていったが、全国生産量はその後も右肩上がりを続けた。

海苔納畢の碑
大田区諏訪神社にある海苔納畢の碑

 

4.復活せよ!江戸前海苔

 海苔の国内生産は平成に入ると頭打ちとなり、一方で、平成8年度から韓国産の輸入が始まった。農産物の貿易自由化の波は海苔にも及び、17年度からは中国産の輸入が解禁されるという。国内生産者を取り巻く環境は厳しくなりつつあるが、近年、香りが良く、味もよいアサクサノリを復活させ、安価な外国産に対抗しようという試みが行われている。木更津市にあるNPOの「盤州里海の会」(http://www.satoumi.net/)では、数年間の苦闘の結果、今冬、アサクサノリを収穫することに成功した。完全復活はまだまだ先というが、江戸前海苔として君臨したアサクサノリが日本の海苔養殖の救世主となる日がそのうち訪れるかも知れない。

海苔の天日干し
おまけ:海苔の天日干し(千葉県船橋市)

 

[参考文献

宮下章『ものと人間の文化史111 海苔』法政大学出版局 平成15年

片田實『浅草海苔盛衰記−海苔の五百年−』成山堂書店 平成元年

週刊朝日編『値段の明治・大正・昭和風俗史』朝日新聞社 昭和56年

総務省統計局『小売物価統計調査 調査結果(平成15年平均)』

『朝日新聞』平成16年10月23日付朝刊 3面

『朝日新聞』平成16年12月7日付夕刊 1面]



2005年1月14日更新


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