第8回 1960年(昭和35年)
「1960年というと、60年安保の年だよね」
「そうだったね。“安保反対”で日本中が騒然となっていて、子供たちまでが、わけもわからずに“安保反対”と、おしくらまんじゅうで遊びながら大声をあげていたからね」
「そんなに凄かったの?」
「安保改定阻止国民会議の統一行動が行われた6月15日は、労働組合員580万人が全国各地で職場集会やストに参加したし、東京では10万人が国会に向かうデモに参加した。7千人の全学連が国会突入をはかり、警官隊と大乱闘となって東大生の樺美智子さんが亡くなったんだ。樺さんの慰霊祭が行われた6月19日には33万人のデモ隊が国会を取り囲んだんだよ。だけど、6月23日に新安保条約批准書交換がされ、岸首相が退陣して池田内閣になると、一転して日本は“豊かさ”に向かって走り始めるんだ。家庭の主婦は、掃除機や洗濯機といった電化製品の浸透で余暇ができ、よろめきドラマに胸をときめかすようになるんだね」
「よろめきドラマ……?」
「不倫ドラマだよ。火をつけたのは、『日日の背信』というドラマでね、病気の妻がいる若い社長と、宝石商の愛人である女性との恋を描いたものだった。主演の池内淳子は新東宝の映画女優だったんだが、新東宝が倒産寸前でテレビにトラバーユしてきたんだね。この頃の昼の番組は、『料理学校』や『暮らしの医学』、『婦人ニュース』といった女性向け教養・知識番組が主流だったんだけど、このドラマの成功で各局ともよろめき始めた。池内淳子に続いて、同じ新東宝の女優だった小畑絹子が『献身』で人気が出て、彼女たちは“よろめき女優”と呼ばれたんだよ」
「この頃になると映画スターがテレビに出るようになるの?」
「新東宝は経営状態がよくなかったので、丹波哲郎も『トップ屋』というドラマに主演していたね。しかし、観客動員数は年々減っていても、映画スターにとってテレビは“電気紙芝居”の世界に過ぎず、テレビに出演したいとは思っていなかったんじゃないかな。『白馬童子』に主演した山城新伍は
“通行人でもいいから映画に出たい”と、当時思っていたそうだよ。ただ、映画会社はテレビの脅威を感じはじめていて、東映はテレビ映画の制作に前年から乗り出していた。山城新伍は59年の『風小僧』で名前が知られ、60年の『白馬童子』で全国的な人気スターになったんだ。『月光仮面』を制作した宣弘社もそうだったけど、東映でテレビ映画を制作した人たちも皆若くてね、そのエネルギーを、テレビを見ている子供たちも感じたと思うよ。宣弘社といえば、『快傑ハリマオ』も面白かったなァ……」
参考資料:テレビ史ハンドブック(自由国民社)、戦後生まれのヒーローたち(小野博宣・渡辺勉:著、アース出版局)
2005年1月25日更新
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