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「昭和のライフ」タイトル

アカデミア青木

沢庵

第25回 あなたの沢庵はポリポリいいますか?


 朝の食卓の定番といえば、以前は米飯に味噌汁、海苔、卵、沢庵あたりだった。高度成長期に育った小生が「沢庵」と聞くと、「沢庵臭い」独特な香りと噛みしめると立つ「ポリポリ」いう音、塩辛い味がとっさに脳裏に浮かぶが、昨今の沢庵はそんなに臭くはないし、音もあまりしないし、塩辛くもない。いったい、昔の沢庵はどこにいってしまったのだろうか?今回の昭和のライフでは、そんな疑問も含めて「沢庵(沢庵漬)」について取り上げる。

1.沢庵の誕生

沢庵禅師の墓
沢庵禅師の墓

 「沢庵」は生干した大根を糠と食塩で漬け、重石を押して作られる。その名前は、発明者とされる江戸時代初めの僧・沢庵宗彭(1573−1645年)から付けたという説と、「貯え漬」という漬物の名前が訛ったという説があって、はっきりとしていない。前者の”沢庵禅師発明説”は不確かなものだが、白米を食べる習慣が庶民に広まり、漬物用の米糠が多量に入手できるようになったのは江戸時代に入ってからなので、時代的には辻褄が合う。蛇足だが、沢庵禅師の墓は品川の東海寺にあるが、その墓石は沢庵石に似た自然石でできている。
 沢庵用の大根には、「宮重(みやしげ)大根」や「練馬大根」などの晩生の秋大根が適している。宮重大根は甘味に富み、生でも煮物でも切り干しでも使えるため、古くから関西方面を中心に利用されてきたが、その名前は産地である愛知県西春日井郡春日村宮重から来ている。今日、スーパーに行くと青首大根を目にするが、これは宮重大根を品種改良したもの(品種名:「耐病総太り」)で、病気に強く太さも均一で取り扱い易く一年中収穫できるため、標準的な品種として全国各地で栽培されている。
 一方、「練馬大根」は東京都練馬区原産の白首大根で、長い円筒形をしている。漬物や煮物に適しており、三浦半島の特産品である「三浦大根」もこの系統に属している。収穫に際しては根元まで土に埋まっているため、根の一部が地表に出てその部分が緑色になっている青首大根に比べ、5倍の力が必要になる。この大根の誕生については次のようないわれがある。
 「(前略)徳川五代将軍綱吉が館林城主右馬頭たりし時宮重の種子を尾張に取り上練馬の百姓又六に与へて栽培せしむるに起ると伝ふ文献散逸して據るべきもの乏しと雖も寛文中綱吉が再次練馬に来遊せしは史籍に載せられ当時の御殿阯なるもの今に存するを思へば伝説に基く所ありて直に斥くべきにあらず再来地味に適して栽培に努めしより久しからずして優秀な品種を作り練馬大根の称を得て主要物産となり疾く寛政の頃には宮重を凌ぎて日本一の推賞を蒙るに至れり(後略)」(東京都練馬区春日町4−16『練馬大根碑』より)
 五代将軍綱吉が種をもたらした話は根拠に乏しいが、碑文から、練馬大根が寛政年間(1789−1801年)までに一定の声価を得ていたことがわかる。その大根を使い、練馬では沢庵の生産が盛んに行われた。同碑によれば、生産量は昭和15年にピークを迎え、年産8万余樽に達したという。

青首大根
青首大根

練馬大根碑
練馬大根碑

2.沢庵の戦後

 表1は、戦後の沢庵の価格と購入量の推移を示したものである。(表1)
 1世帯当たりの沢庵の年間購入量は、戦後間もない昭和22年には16.74Kgもあった。これは沢庵が一時的に「主菜」として食べられたからで、食糧事情が好転するにつれて、本来の「香の物」の位置へと戻っていった。22年の沢庵と米の購入量の比率は、16.74Kg:301Kg=5.56%。これが26年になると2.5%を切り、以後29年までは2.3〜2.5%の間で推移するが、この頃が戦後沢庵の「安定期」だったのかもしれない。
 ところが、沢庵の購入量は30年代に入り、なお減少を続けた。昭和20年代末から35年にかけて米の年間購入量は430Kg前後で安定していたが、沢庵と米の比率は30年の2.12%から35年には1.47%へと低下した。これには沢庵固有の事情があると思われる。
(1)食生活の向上と「軟食」
 経済水準が向上するにつれて一般家庭の食生活も豊かになり、手の込んだ料理が食卓に並ぶようになった。手の込んだ料理は柔らかいものが多く、それに馴れたためか硬い食品を忌避する「軟食」の傾向が次第に強まっていった。生干した大根から作られる沢庵は硬く、従来から歯の弱い人からは敬遠されていたが、それが一般にも広まっていった。
(2)食の洋風化と「沢庵臭」
 戦後、食の洋風化が進んだが、それに伴い沢庵独特の発酵臭が次第に「悪臭」と感じられるようになっていった。沢庵を冷蔵庫に入れておくと臭いが冷蔵室に充満し、これが主婦の不評を買った。
(3)ライバルの登場
 戦後、様々な調味料を使用した新興の漬物が続々登場。東海漬物の「きゅうりのキューちゃん」(昭和37年発売)に代表されるように、CM等を通じてお茶の間に浸透し、既存の漬物を駆逐していった。
 むろん、沢庵業者達も手をこまねいていただけではなかった。昭和32年には大根を生干しせず、塩漬脱水して作る「東京たくあん」を開発。歯ごたえがソフトな沢庵として、この系統が今日沢庵の主流となっている。また、沢庵臭を軽減するために沢庵の臭気を抜いてパック詰めする方法が開発され、30年代に乾物店で見られた沢庵の樽は急速に姿を消していった。また、電気冷蔵庫の普及に伴って(世帯普及率:35年10%、40年51%、45年89%、55年99%)、常温で沢庵を保存するために使っていた多量の塩が必要なくなり、沢庵は薄塩味になっていった。
 昭和30年代後半からは「米離れ」も加わって、沢庵消費量は長期低落を続けているが、沢庵と米の比率に注目すると、昭和40年の「1.06%」以後、平成元年には「1.95%」まで回復している。これは、上記のような関係者の努力の結果、漬物間の競争である程度巻き返すことに成功したからだろう。

3.練馬大根の干し沢庵は今

練馬大根の沢庵
練馬大根の沢庵

 噛みしめると「ポリポリ」音を立てる沢庵は、上記のような経緯で今日少数派になってしまったが、全く手に入らないというわけではない。練馬区には授業で練馬大根を栽培、収穫して、沢庵を作っている小学校があるし、区の物産展で昔ながらの練馬大根の沢庵を買うこともできる。(練馬区「産業のひろば」ホームページ:http://www.city.nerima.tokyo.jp/sangyo/)また、秋口には練馬大根の収穫体験ができるイベントもあるので、その大根を使って自分で沢庵を漬けるのもいいかもしれない。

収穫体験ポスター

[参考文献

前田安彦『新つけもの考』岩波新書 昭和62年

前田安彦『漬物学−その化学と製造技術』幸書房 平成14年

『世界大百科事典』平凡社 昭和47年 「米」、「大根」、「沢庵漬」の項

農文協編『野菜園芸大百科12
 ダイコン・カブ・ニンジン・ゴボウ』(社)農山漁村文化協会 平成元年

新村出編『広辞苑(第3版)』平成2年 岩波書店

経済企画庁調査局『家計消費の動向』]



2005年6月3日更新


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