第20回「野球のボールを作ったのは誰だ」の巻
多くの人にとって、子ども時代の野球体験は軟球だろう。一生を通しても、硬球でプレイしたことがあるなんて人はかなり少ないハズだ。「軟球、軟球」というからとても柔らかいのかと思ったら、結構、痛烈なライナーが体に当たると痛い。
私たちがやっていた、空き地での野球もどきは、「ハンドベースボール」というもので、テニスで使うぷよぷよとしたゴムボールを手や木っ端で叩いていた。野手が次塁上で捕球するだけでなく、走っているランナーにボールを当ててもアウトがとれるという殺人ルールであり、当然、ケンカが絶えなかった。
あのころはあちこちに軟球やゴムボールが落ちていて、遠くに飛んでいったボールを田んぼに探しにいくと、逆に2〜3個増えて戻ってくるヤツもいた。「ボールとらせて下さ〜い」と黄色い声をあげると、カキやみかんを持たせてくれた近所のオバサンもいたっけな。
軟球は自転車のスポークの中心(ハブ)あたりにはさんでいたから、どこにでかけても人数さえいればボール遊びはできた。
軟式野球ボールを発明したのは実は日本人。大正九年に鈴鹿栄商店が「少年野球用毎日ボール」と「児童ボール」を発売したとの記録が業界紙にある。調べてみると、大正五年に京都市内で文具・書籍店を経営していた鈴鹿栄氏が、市内の小学校教師たちで結成した京都少年野球研究会に参加したことから始まった。彼は自分の息子が病弱だったので野球が体にいいのではと思って参加したのだ。
折しも前年の夏から全国中等学校野球選手権(甲子園)が始まり京都二中が優勝したことで、京都では野球が流行していた。しかし硬式のボールは高価であるし、当たると痛い。そこで子ども用のボール製造研究に野球研究会が着手したのだ。鈴鹿氏は店先に脱ぎ捨ててあったゴム靴の裏面を見て、「滑り止めのブツブツがいいな」と考え、二年後に凹凸をつけたボールとして完成した。さらに改良を加えて大正九年に発売にいたった。
戦後、子どもの間では野球が大ブームになった。
後楽園球場の入場者数では、昭和二十五年の年間のべ人数は二四三,五七一名、総入場者数のおよそ一五%だった。
昭和二十二年の文部省の調査では、こどもが面白かったあそびは「野球、かくれんぼ、魚つり、キャッチボール」三年生から六年生では野球が、都市、脳漁村を問わず第一位である。小学生が好きなものの調査では球技、水泳、陸上競技、ダンスの純であり、子どもはまずボール遊びが好きである。そして、勝負が決まる、投げる打つ走るなど変化がある、集団競技でありながら個人の技能も必要で個人がバッターとして働く場が用意されている、道具が簡易、肉体エネルギーを他のスポーツより消耗しないという点で子どもに野球が好まれた。読売、毎日など新聞社と一致しているため、宣伝が多かった。アメリカの子どもはバスケットやフットボールが人気だった。バスケやフットは地味だが、野球はファインプレイや、ボス的支配ができるので日本人にあっていたのではという示唆もある。プロ野球も義理人情と徒弟制があり、合理的ではない。
軟球が野球の大衆化に果たした役割は大きい。平成十五年にその功績が認められ、野球殿堂入りを初めて軟式野球から果たしたが、ある意味、「少年野球の父」である。
●はるかを改稿
2006年3月9日更新
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