第10回 1962年(昭和37年)
「ところで、西部劇ブームはいつまで続いたの?」
「ロバート・フラーが来日した1961年がピークで、アッというまに冷えていったね。暴力追放キャンペーンや、青少年保護育成条例によってモデルガンが有害オモチャに指定されたりした社会背景もあってね。西部劇に代わって登場してきたのが『ベン・ケーシー』や『ドクター・キルディア』といった医者ものだった」
「医者ものだと、最近でも『ER・緊急救命室』は人気あるよね」
「そんなものじゃないよ。『ベン・ケーシー』は、開始3ヶ月目には視聴率が29%に達し、翌年1月には50%を超えるという驚異的な記録を作ったんだ。ベン・ケーシーは大病院の脳神経外科医で、脳腫瘍という病気が一般的に知られるようになったのはこの番組からじゃないかなァ。経営と医療の葛藤や、看護夫の存在など、日本の病院と違うところが多く、当時の平均的日本人はかなり驚いたようだね。うちのお袋なんか、“アメリカは健康保険がないから大変だ”なんて言っていたもの。子供たちは、“男・女・誕生・死亡・そして無限(♂・♀・*・+・∞)”と、オープニングでナレーションとともに黒板に書かれるマークを訳もわからずに覚えたりしてね。主演のビンセント・エドワーズは、それまで『現金に体を張れ』などのB級ギャング映画に出演していた傍役だったんだけど、主人公の正しいと思ったことはどんな反対にあってもやりとおす頑固な性格と、彼の風貌が見事に一致して女性ファンにも人気があったね。本国アメリカでも人気があって、彼を本物の名医だと思い込んだ視聴者が多かったそうだよ」
「ビンセント・エドワーズ……名前、きかないね」
「ベン・ケーシーのイメージが強すぎて、スターとしては結局成功しなかったね」
「海外ドラマ以外では、どんなのが人気あったの?」
「1962年というと、『てなもんや三度笠』は外すことができないね。藤田まことの“あんかけの時次郎”と白木みのるの“小坊主の珍念”が、東海道を大阪から江戸へむけて旅をしていく時代コメディで、毎回多彩なゲストが顔を揃えていた。藤田まことと白木みのるは主役というより狂言回しの役だったね。脇役を含めた全員が、“出た以上は、絶対に目立つぞ!”といった感じで、積極的に出しゃばってくる気迫が笑いを過激なものにして、爆笑の連続だった。ゲストの中心が東京の芸人だったこともあるけど、大阪の笑いが東京でもバカ受けしたのはこの番組が最初じゃないかなァ。当時の東京の人間は貧乏臭い感じのする大阪の笑いを一段下に見ていたところがあったからねェ」
「コメディは、下品なものより上品な方が私は好きだわ」
「それを言われると“ヒッジョーにサミシ〜イ!”」
「それって、ギャグ?」
「あたり前だのクラッカー」
参考資料:テレビドラマ全史(東京ニュース通信社)、テレビ史ハンドブック(自由国民社)
2005年3月10日更新
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