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アカデミア青木

第29回 塩田は消え、また蘇る


 高度成長期、浜辺にあった塩田は次々と埋め立てられて、工場や団地へと姿を変えた。そして塩の味が変わり、刺すような辛みが増した。ところが平成9年に塩の専売が廃止されると、全国各地に塩産地が生まれ、美味しい塩が作られるようになった。塩田はなぜ姿を消し、今また蘇ったのか?今回の昭和のライフではその経緯を明らかにしたい。

1.塩と日本人

 近年の研究により、塩は人間になくてはならない物質であることが明らかになりつつある。しかし、我々はそれ以前から、半ば本能的にそのことに気づいていた。
 塩に含まれるナトリウムには栄養の吸収力を高めたり、筋肉を収縮させるなどの作用があるというが、昔から胃が弱った時に「塩茶」を飲み、鋳物工場など汗を沢山かく職場では塩を舐め舐め作業をしていた。また、野菜に多く含まれるカリウムはナトリウムを体外に排泄する働きがあるため、そのまま食べると体内の無機質のバランスを崩してしまうというが、我々は野菜に塩を加え、おひたしやサラダにして食べることで自ずとこれを避けていた。また、食塩濃度が10%以上になると腐敗バクテリアの発生やその他多くの微生物の発生を抑制する効果が現れるということだが、以前からその作用を梅干、漬物、味噌、醤油などの製造工程で使ってい
た。
 日本人はいつ頃から塩を作り始めたのだろうか。世界の中には岩塩の鉱山や塩湖から塩を得ている国もあるが、四方を海で囲まれた日本では海水から塩を得ていた。縄文時代の遺跡からも製塩に使った土器が出土している。海水100g中に含まれる塩分は約3g。
海水からストレートに塩を取ろうと思ったら97gの水分を蒸発させなければならないが、それでは大量の燃料が必要になる。そこで、海草に繰り返し海水を注いで乾かし、塩分を蓄積した海草を焼いて塩灰を作り、それを海水で溶いて釜で煮詰めて塩を得る「藻塩焼き」という製法が生まれた。また、海草の代わりに砂浜に海水を撒いて塩を取る方法も考案され、時代を下るにつれて様々な改良が加えられていった。

2.塩の産地間競争〜十州塩と行徳塩〜

『伊藤塩田跡・谷津遊園跡』説明板より
『伊藤塩田跡・谷津遊園跡』説明板
(平成元年 習志野市教育委員会)より

 瀬戸内地方は年間降水量が少なくて晴天率が高く、遠浅で干満の差が大きい海浜が多く、花崗岩起源の細かい砂が容易に入手できたことから、古くから製塩業が行われていた。江戸時代に入ると播州・赤穂付近で入浜式塩田の改良が進められ、やがてその技術は瀬戸内各地に伝播していった。播磨(兵庫県)、阿波(徳島県)、讃岐(香川県)、伊予(愛媛県)、備前・備中(岡山県)、備後・安芸(広島県)、長門・周防(山口県)の10州で取れる塩は「十州塩(じゅっしゅうえん)」と呼ばれ、一種の「ブランド塩」として他の産地を圧倒した。米を積んで各地から大阪に来た船は、帰りには瀬戸内の十州塩を積んで帰って行ったという。お陰で十州以外の製塩地は次第に衰退していき、十州での生産は元禄期(1688−1703年)には全国生産の約半分、幕末には8〜9割を占めるに至った。
 もちろん、十州塩に対抗し続けた産地もある。江戸の目と鼻の先にある「行徳塩田」(現、千葉県市川市)は幕府の保護を受けて、江戸市中の塩流通に一定の影響を及ぼし続けた。
 戦国時代、行徳塩田は北条氏の支配下にあり、今川氏真が敵対する武田信玄に対して「塩止め」を行った際には、北条氏政がこれに同調して行徳を含む支配下の塩田から武田領への塩の移出を止めた。塩は米や味噌と並んで戦場では欠くことのできない物資で、10人当たり1日1合(180ccの枡で1杯分)の量が必要だったという。北条氏が滅ぶと徳川家康が江戸城に入ったが、家康は行徳塩田を天領にして保護を与え、日本橋〜行徳間に「小名木川」と「新川」という2つの川を開削して、行徳でできた塩を船で城まで最短距離で運ばせるようにした。
 豊臣氏が滅び、島原の乱以降大規模な内戦がなくなると、軍需物資としての塩の重要性は低下し、元禄期になると十州塩が江戸に恒常的に入るようになった。行徳では十州塩に対抗するために、江戸後期になると、塩を穴蔵に入れてにがりや水分を除去した「古積塩」を製造した。この塩は十州塩とは異なり長期保存しても目減りしないことから、海岸線から遠くて輸送に時間がかかる北関東や、雪深い東北、信濃などで十州塩を圧倒した。また、江戸の塩相場に行徳側の意向を反映させるために、塩を天秤棒で運んで江戸市中の各家庭に直接販売することによって、江戸にある塩問屋仲間の統制を打破することに成功している。

今も残る製塩関係の地名
今も残る製塩関係の地名
今も残る製塩関係の地名

3.塩の専売と塩田の整理

 明治維新後、廃藩置県によって塩田は幕府や各藩の保護を失い、製塩は純粋に民間業者の手に委ねられることになったが、過当競争から粗製濫造に近い状態となり、その多くが経営不振に陥った。また、海外との交流が進むにつれて、良質で割安な外国塩が国内市場に流入するようになり、国内産地を次第に圧迫していった。
 日清戦争後、政府は台湾での塩田開発と危機に瀕した内地塩業の保護を図るため、塩業調査会を組織し、内地塩業の本格的調査に乗り出した。塩業調査会は内地塩業の生産費の削減・品質向上に資する数々の改善策を答申、外国輸入塩との競争に耐えられる技術と経営方式を確立するため、試験研究の重要性を説いた。こうした動きを通じて、当局の中に人の営みに必要不可欠な塩の供給を全面的に外国に求めることは危険だという見方が広まり、政府の方針は「内地塩業の保護育成」へと傾いていった。
 明治37年に日露戦争が始まると、政府は戦費調達のために「非常特別税法案」を議会に提出、種々の物品に新税を課したり、タバコの製造専売を行おうとした。このうち塩については、当初、消費税制度の導入、輸入税の増税が企図されていた。議会では、消費税制度を導入する方法と専売制度を導入する方法の2つが議論されたが、準備に時間がかかることを嫌った財政当局や塩が販売できなくなることを恐れた塩販売業者は前者を押し、外国塩の流入に苦しんでいた塩生産業者及び塩田地主は政府の保護を求めて後者を押した。結局、塩消費税制案を否決された大蔵省は、従来から国内塩業の保護育成を主張していた農商務省の意見を取り入れて専売制度を採用、38年6月1日から実施した。
 政府は塩を専売にする一方で、生産性の低い塩田の整理も断行した。明治43年の第一次製塩地整理では、塩生産高で6万5312トン、1万3402人の塩製造業者が整理され、この時特殊な製塩方法はほとんど姿を消した。この結果、専売収益は増加し、塩価は引き下げられた。
 ところが、大正時代に入って第一次世界大戦が勃発すると、日本の重化学工業化が進展、物価や賃金が著しく上昇したため、労働集約的な塩田経営にも大きな影響を与えた。政府が生産業者に払う賠償価格は引き上げざるを得ず、専売によって得られる利益は大幅に減少した。大正8年以降、財政収入の確保という専売の所期の目的は失われ、塩需給の円滑化、価格調整、国内塩業の保護育成へと目的は変化、塩の売渡価格も賠償価格に回送保管費を加算した程度になった。

 昭和4〜5年には立地条件の劣っている塩田を対象に第二次塩田整理が行われ、塩生産高で9万195トン、1568人の塩製造業者が整理された。ちなみにこの時、行徳塩田も姿を消している。
 第二次大戦が勃発すると塩は配給品となるが、政府は国内での自給自足体制を整えるために自家用製塩を許可した。当初は1人年12Kg、1家族年180Kgの量であったが、戦局の悪化に伴って海外からの塩の移入が難しくなったことから、設備に対して補助金を出したり、第二次塩田整理で廃止した塩田を使わせるなどした。

4.技術革新と塩田の消滅

 戦後、極端な塩不足に見舞われた結果、表2の通り塩の価格は急騰した。自家用製塩からスタートした小規模業者達はこれをビジネスチャンスとみて、増産にいそしんだ。他方、大規模業者達は資材不足から再建に手間取り、昭和21年に入りようやく増産への目途をつけた。塩の輸入が再開されると、事業規模の大型化と効率化が課題となり、GHQによって補助金の打ち切りや専業製塩への転換命令などの施策が講じられ、製造廃止に追い込まれる業者も出た。24年6月には日本専売公社が発足し、大蔵省専売局から専売業務が受け継がれた。
 専売公社は、経営の合理化、製塩設備・技術の改善などに務めた。27年には流下式塩田を導入、塩田を平面でしか利用できない入浜式塩田に代わり、塩田を立体的に利用することによって、生産量は2〜3倍になった。また同じ頃、低品位の石炭などを燃料にして海水を直接煮詰めて塩を得る、加圧式海水直煮製塩法が開発され、一定の地歩を占めた。ところが、これらの普及によって塩は再び生産過剰となり、34年に第三次の塩業整理が行われた。
 流下式塩田は確かに生産量を増大させたが、なお広大な土地とかなりの労働力を必要としていたし、最終的にはお天気頼りのところがあった。また、建設資材の暴騰から加圧式海水直煮製塩法の先行きもあやしくなってきた。これらの問題を根本的に解決するために考案されたのが、「イオン交換膜法」である。電気エネルギーとイオン交換樹脂膜を使って海水の塩分を濃縮し、これを真空式蒸発缶に入れて製塩するのだが、労働生産性は、入浜式の138倍、流下式の11倍、土地生産性は入浜式の1200倍、流下式の746倍。立地条件の制約が少ないことから、汚れの少ない海から採水できるメリットもある。このイオン交換膜法は昭和40年代に入って本格化し、46年に「塩業近代化臨時措置法」が施行されるとこの方式に一本化され、塩田は姿を消した。        

5.美味しい塩を求めて

 イオン交換膜法は塩の生産性を飛躍的に向上させたが、その製品は塩化ナトリウムの純度が高く、ミネラルが多かった従来の塩に比べて「塩辛く」感じられた。そのため、従来の自然塩に近い風味を持った塩が、中小メーカーによって作られるようになる。いずれも原料は専売公社(後に、日本たばこ産業)に求め、加工して自然塩に近い風味を得ていた。主な製法としては、1.高純度塩ににがりと水分を加える、2.外国の塩田産の原塩を材料ににがりを残して精製する、など。バブル期の昭和63年には、1Kg約300円と専売塩の4倍程の価格にもかかわらず、年率15%前後のペースで売り上げを伸ばしていたという。
 しかし、平成9年4月1日に塩の専売が廃止され、誰でも自由に塩を製造販売できるようになると、海水から直接作った塩が全国各地に登場するようになる。昔ながらの製塩法で作られた塩は生産量は少ないものの、本格派志向の消費者の舌に受けている。藻塩、揚げ浜塩、天日塩、釜煎り塩等、製法は様々だが、離島を旅する機会があったら土産物店で捜してみるのも一興だろう。

五島列島の自然塩
五島列島の自然塩

[参考文献

日本専売公社『第四次塩業整備事績報告』昭和48年

週刊朝日編『値段の明治・大正・昭和風俗史』朝日新聞社 昭和56年

平島裕正『ものと人間の文化史7 塩』法政大学出版局 昭和57年(7刷)

廣山堯道『塩の日本史』雄山閣出版 平成2年

小沢利雄『東京湾沿岸の塩田製塩について』(『船橋市史研究第十一号』船橋市教育委員会 平成8年 に掲載)

落合功『江戸内湾塩業史の研究』吉川弘文館 平成11年

玉井恵『日本の塩100選』旭屋出版 平成14年

昭和63年12月2日付『朝日新聞』朝刊11面]



2006年10月13日更新


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