第31回 メイド・イン・ジャパンの紅茶はどこへ?
英語で「black tea」と呼ばれる紅茶。しおれさせたお茶の葉を揉んで、完全発酵させて作るのだが、日本人が嗜むようになったのは意外と遅く、明治になってから。しかも、消費の中心はハイカラな上流階級で、庶民は緑茶を愛飲していた。そういえば時代は下るが、小生が子供の頃は、紅茶は来客があった時か、ケーキをお土産でいただいた時にしか現れなかった。そんな紅茶を外貨獲得の為に生産する試みが、明治から昭和30年代にかけて行われたが、結局のところうまくいかなかった。今回の昭和のライフでは、その話を含めて、日本の紅茶生産の歩みについて取り上げてみたいと思う。
1.紅茶の誕生とヨーロッパへの伝播
茶樹の原産地は中国・雲南省。中国では古くから不老長寿の薬として茶が飲まれていた。最初は茶の葉を蒸して揉んだだけの緑茶だったが、後に半発酵茶であるウーロン茶や発酵茶である紅茶が作り出された。紅茶の原型は宋時代(10〜13世紀)に現れたというが、詳しいことはわかっていない。
ヨーロッパに茶がもたらされたのは17世紀の初頭。1610年にオランダ商人が緑茶を輸入したのがはじまりとされている。茶は、まずポルトガルの宮廷で飲まれ、そしてオランダの宮廷・富裕商人へと広まり、やがてイギリス王室にもたらされた。当時、中国からは緑茶とウーロン茶系の武夷茶が輸出されたが、ヨーロッパ、とりわけイギリスでは武夷茶の人気が高かったため、イギリス人の嗜好に合わせようと武夷茶の改良が進められて、今日見られる完全発酵の紅茶が出来上がったという。紅茶を英語で「black tea」と呼ぶのも、元来武夷茶の茶葉の色が黒で、紅茶の茶葉も黒っぽかったことによるようだ。
イギリスでは18世紀に入ると上流階級の間で紅茶が定着し、産業革命後は一般庶民にも普及したが、全て中国からの輸入に頼っていた。紅茶の自給はイギリスの悲願だった。そんな時吉報がもたらされた。1823年にインドで野生の茶樹が発見されたのだ。中国・雲南省を原産とする茶樹は、東は中国を経由して日本へ、西はインドのアッサム地方へと広がっていき、独自の進化を遂げた。中国種は葉肉が薄くて堅く、タンニンが少ないので緑茶向き。一方、アッサム種は葉肉が厚くて柔らかく、タンニンを多く含み、酸化酵素の活性が非常に強いことから、発酵茶である紅茶に向いた。イギリスはこの野生のアッサム種を栽培育成して、植民地のインド、セイロン(スリランカ)で紅茶の生産を開始、19世紀後半には中国茶を圧倒するようになった。
ちなみに、日本人として初めて紅茶を口にした人物は、江戸時代後期に漂流してロシアに渡った伊勢の船頭・大黒屋光太夫といわれている。彼が1791年秋にロシアの首都で紅茶を飲んだことを記念して、昭和58年に日本紅茶協議会は11月1日を「紅茶の日」とした。彼が飲んだ紅茶は、もちろんアッサム種ではない。
2.国産紅茶事始め
緑茶の国・日本で紅茶の生産が始まったのは明治初年。幕末の開国以来、茶は生糸と並んで日本の輸出の花形商品として脚光を浴びていたが、海外では緑茶よりも紅茶の方が需要があることを知った明治政府は、外貨獲得のために紅茶を生産しようと力を入れた。
まず、明治7年に内務卿・大久保利通の命で『紅茶製法書』が作成され、内務省勧業寮農務課内に製茶掛が設けられた。ここで紅茶が中国風の製法で試製された。これが日本の紅茶生産の始まりなのだが、出来たお茶は「紅茶らしきもの」に過ぎなかった。製茶掛は『紅茶製法書』を各府県に布達して紅茶製造を奨励したが、各県から提出された見本や勧業寮の試作茶を海外に送って評価してもらったところ、いずれも不評だった。
そこで政府は本場・中国から紅茶製造技術者2名を招き、明治8年に大分・熊本両県に「紅茶伝習所」を設置して、官費生徒20名に紅茶製法を伝習させた。しかし、成果ははかばかしくなく、試製茶の海外評価は相変わらず不評。紅茶伝習所は9年8月に中国風製茶法を廃止し、10月には中国人技術者を解雇した。
政府は勧業寮局員・多田元吉を8年に中国、9年にインドへと派遣し、現地の状況を視察させ、従来の中国風製茶法に代わってインド風製茶法を採用することした。10年2月に多田が帰国すると、翌月にインド風製茶法による紅茶伝習、試製のために、高知県に伝習場を設けて、紅茶の試製や付近の茶業者への伝習を行った。ここの製品は日本におけるインド風紅茶製法の最初のものとなったが、海外での評価はおおむね良好で、「インド茶に比べると少し味が薄いが、十分に需要がある」との評を得た。翌11年に政府は『紅茶製法伝習規則』を発布し、紅茶伝習所を東京・内藤新宿、静岡県・静岡、福岡県・星野、鹿児島県(現宮崎県)延岡に設け、紅茶を試作伝習し、製品をイギリスに試売した。勧業寮は翌年から府県の要請を受けて各地に紅茶伝習所を設け、多田は巡回指導した。明治11〜13年の間に勧業寮、府県、民間の紅茶伝習所で製法を習熟し、卒業証書を授与された者は651名に及んだという。政府による紅茶製法の伝習は13年をもって終わり、明治16年から23年にかけては、紅茶関係府県に卒業免状取得者が派遣され、指導が行われた。明治初年から紆余曲折のあった紅茶伝習はやっと軌道に乗り、『紅茶製法伝習規則』はその役目を終えて23年10月に廃止された。
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ただにしき(左:多田元吉が持ち帰った種を改良したもの)べにほまれ(右:昭和28年に品種登録) |
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3.紅茶輸出国を目指して
ところで、紅茶の製法が普及するにつれて、政府が意図したように日本の紅茶生産は増えていったのだろうか?表1を見ると、仕上げ加工前の荒茶ベースで明治16年に年産54トンだった紅茶生産は、『紅茶製法伝習規則』が廃止された23年には175トンと3倍余りに増えた。しかし、その後は思ったように伸びず、28年以降は減少に転じている。
インドやセイロンでの紅茶生産が本格化し、紅茶の本流が中国種からアッサム種へと代わっていく中で、中国種系の日本紅茶の旗色は良くなかった。ロンドンの市場では中国産紅茶の取り扱いが明治12年をピークに急速に減少していたし、セイロンではリプトンが23年に紅茶プランテーション経営へと乗り出している。日本政府は26年のシカゴ万博で日本庭園に接待所を設けてインド、セイロンに対抗して宣伝活動に励んだが、一方の生産者側は、緑茶の輸出がアメリカ向けを中心に好調だったため、進んで紅茶を生産しようという意欲を失ってしまったようだ。
日本で紅茶生産が再び盛り上がるのは、第一次大戦後。日本緑茶最大の市場であったアメリカへインドやセイロンの紅茶が積極的に進出、アメリカ人の嗜好が次第に紅茶へと移って行く中で、日本の緑茶輸出は急減した。これを補うために再び紅茶の生産に目が向けられた。三井合名会社(明治32年に台湾で製茶事業を開始した三井物産から、42年にプランテーション建設を引き継いだ)は大正14年にアッサム種を導入、製品の品質向上に努めた結果、欧米市場で高い評価を得ることに成功した。国内市場でも昭和2年に本邦初のブランド紅茶「三井紅茶」(5年に「日東紅茶」と改名)を発売し、当時人気を博していた「リプトン紅茶」(明治39年に日本初輸入)に対抗した。
また、第一次大戦以降、ジャワ、スマトラでの紅茶生産が大幅に伸び、それがイギリスに流入した結果、昭和4年にロンドン市場で紅茶価格が暴落した。そこで、インド、セイロン、ジャワ、スマトラの生産者組合の首脳がロンドンに集まり、生産調整を行うことで合意した。8年に結ばれた「国際茶協定」では上記地域の輸出割当と茶樹の新植禁止が決まり、後にケニヤやウガンダなどの国もこの協定に参加したが、当時日本の紅茶は国際市場ではほとんど認められていなかったため、日本は協定のアウト・サイダーとなった。協定実施によりロンドンをはじめとする各国の市況は好転したが、その結果値段の安い増量用の紅茶の葉が不足し、日本へと注文が舞い込むこととなった。昭和12年に国内で生産された紅茶の量は4635トン。これは茶全体の生産量の8.6%を占める。それとは別に台湾で6000トンが生産され、この年の紅茶輸出は6350トンを記録した。ようやく日本も「紅茶輸出国」へと踏み出せるかに見えた瞬間だった。
しかし、それは長くは続かなかった。アフリカ等での紅茶生産が拡大した結果、国際茶協定による特需は数年でなくなり、日本が第二次大戦に突入したため、国内生産は一気に落ち込んだ。戦時中、食料増産の為茶畑は畑へと切り替えられ、そして、戦後台湾を失い、日本の紅茶生産は潰滅状態となってしまったのだ。
4.自由化の荒波の中で…
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戦後、日本の茶産業の回復は早かった。GHQが食料放出の見返りとして茶を輸出することを求めた結果、終戦の年に23651トンだった茶全体の年間生産量は、サンフランシスコ講和会議の翌年の27年には57152トンとほぼ戦前の水準まで回復した。しかし、それは緑茶の話で、紅茶の生産は先の事情からなかなかそうはいかなかった。
輸出に活路を見いだせない紅茶生産者にとって幸いだったのは、戦後、パン食が普及するにつれて、表3のように紅茶の1世帯当たりの年間購入量が増えていったことだ。
ただ、紅茶の消費量が増えても、増加分が丸々国産品へと向かう訳ではなかった。「日東」、「森永」、「明治」、「日本」といった業者は、輸入したセイロン茶や台湾茶に国内茶を3割ほど混ぜて販売していた。日本人が紅茶を飲めば飲むほど、紅茶輸入は増えていった。もし、インドやセイロンの紅茶に匹敵する品質の紅茶を国産化できたなら、日本の紅茶生産者は大きなビジネスチャンスを得ることができる。事実、昭和20年代末から昭和30年代半ばにかけて、紅茶の新品種が相次いで登録されている。昭和28年に「べにほまれ」、「はつもみじ」、「べにたちわせ」、「あかね」が、29年に「べにかおり」、そして35年には「べにふじ」、「いずみ」、「さつまべに」というように。たが、品評会で「本場物に匹敵する」と折紙を付けられても、商業生産レベルではお粗末なものが多かった。
戦後、日本の紅茶生産がピークとなるのは、昭和29年から30年にかけて。29年、アッサム地方で大洪水が起こったり、ロンドンで港湾ストが起きたため、ロンドン市場の紅茶在庫は払底し、紅茶相場は急騰した。そのため、今まで見向きもされなかった日本紅茶に対しても注文が殺到、この年の輸出はイギリス向け1741トンを最高に、全体で5568トンに達した。30年も3月に入るとロンドンの市況は落ち着きを取り戻したが、日本の輸出はこの年いっぱい好調を維持した。ところが、翌31年には紅茶の世界市場が平常に回復したので、日本への引き合いはパッタリと途絶え、この年の紅茶の国内生産量は、前年の8525トンから656トンと、一気に1/13にまで落ち込んでしまった。国際市況の動きに翻弄される日本の紅茶業を救済しようと、政府は昭和34年に「15年計画で紅茶の作付面積を10倍の1万haにする」、「茶業振興に必要な資金の融資、醸成措置を講じる」などの基本方針を打ち出した。これを受けて、35年の国内生産は1661トンとなり、その年の輸入量を上回ることになった。
ところで、我々が常日頃目にする「ティーバッグ入り紅茶」だが、これを国内で初めて手掛けたのはリプトンである。リプトンは三井物産、東食と提携して、西ドイツからティーバッグ包装機を輸入し、昭和37年に初めてこの製品を世に出した。インスタント食品流行の中、それは世間から好評をもって迎えられ、他の業者もすぐにこれに追随した。当時のティーバッグには「中の上」の品質の茶葉が使われたが、国産紅茶の品質は「中の下」から「下の上」。そのため、国内の生産者はティーバッグブームの恩恵に浴することはできなかった。それどころか、このブームは缶入り紅茶の需要を喰う形で進行したため、缶入り紅茶の増量用に使われていた国産紅茶はだぶつき、生産を圧迫することになった。
輸出もダメ、国内市場も先細りの日本紅茶に引導を渡したのは、「貿易の自由化」要求だった。「先進国で紅茶の輸入制限をしているのは日本だけだ」という非難を受けて、政府が紅茶の輸入自由化を実施したのは昭和46年6月。国産紅茶保護政策はこれをもって終わりを告げ、その後の日本の紅茶生産は表2の通り、見る影もない。
しかし、日本紅茶が完全に「まぼろし」となったわけではない。平成に入ると、地域振興の一貫として、紅茶作りに取り組む人々が各地に現れるようになった。静岡、三重、鳥取、兵庫、沖縄など生産量はまだ少ないが、ユニークなお土産品として注目されている。紅茶好きの方は、旅先の土産物店で捜してみてはいかがだろうか。
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2007年4月27日更新
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