ラーメン¥550は、運ばれてきた瞬間、魚介系の香りがブンと鼻をつく。香りがはっきりしているものの、キツさはなく、味わいも節系に煮干のような味わいもあって複雑に絡み合っているようなのに、全体の印象としては実にシンプル。物足りなさは微塵もない。チャーシューは味が殆どついてなく、柔らかく仕上がっていて、ほろけてもスープを邪魔しない。麺はこのスープを邪魔しない代物で、グイグイ完食できた。
閉店時間までまだ少し時間があったものの、食べ終わる頃には既に看板。これはユトリを持って行かれた方がいいかもしれない。
ここからJRの新検見川の駅に出て、千葉千葉駅へと向かったわけだが、この新検見川駅、街道沿いにあった80年代のファミレス、昔の環七の不二家みたいなつくりだったので、思わず撮影。
駅前ロータリーを抜け交通量の多い道路を南下。郊外的風景にチェーン店が点在する中、脇道にスッと入ると、道が急に、最近宅地開発されたような擬似煉瓦敷の遊歩道となる。
周囲は殆どが空き地で雑草が生い茂る。所々ポツンと家が建っているが、見ると最近分譲されたような真新しさで、ニュータウンの雰囲気が充満していた。ここに嘗て大きな工場とか何かがあって、再開発に伴って取り壊されでもしたのだろうか。
そんな不安が的中したかのように、広大な空き地の真ん中、経年劣化したコンクリートの黒ずみが異彩を放つ検見川送信所が現れた。
既に赤茶けて錆付いているが、窓という窓、扉という扉が鉄板で塞がれている。
そもそも送信所って何を送信してたのかというと、国内で初めて、海外向けの国際ラジオ放送を発信した局舎なのだそうな。大正15年に開局し、国際放送がなされたのが昭和5年。ロンドン海軍軍縮条約の調印を記念して、浜口首相が行った演説を米英に送信した。また日本発の標準短波を送信した施設でもあり、先の大戦中は南方の占領地との通信拠点ともなった。この意味合いで一種の戦争遺跡ととる見方があるのかもしれない。現在の建物のほかにいくつか施設があったようだが、本館だけを残し、昭和54年に閉局。今は千葉市が中学校用地として所有している。
本館の建物自体は東京中央郵便局や大阪中央郵便局を手がけた吉田鉄郎の設計。表現主義的モダニズム建築で貴重なコンクリート建築も鉄板で覆われるとなんとも情けなく映るが、角の丸みはコンクリート建築としては意匠を感じさせる部分が残っており、戦前のコンクリート造の小学校などに似たような造作が見られる(参照:検見川送信所を知る会http://kemigawaradio.web.fc2.com/)。そっけなくもちょっとしたところに魅せる部分を秘める当時の建築はイケてるね〜
そんな細部を具に見学したいところだが、廃墟・心霊スポットとして有名になりすぎたため、敷地をグルッと柵で覆われ、立入禁止となっている。グルッと一周してみたが、貯水タンクと思しき高架水槽らしきものが見えたくらいで、
東側は貸し出している農地が広く、
正面の南側はブルーシートの掛かった建築資材で、これというものは見受けられなかった。
仕方なく帰ることにした。
この周辺も家が立ち並び、数年後にはガラリと違った風景と化しているだろう。それもまぁ仕方のないこと。そんなこんなもひっくるめて受け入れるべく、また来ようと誓い、検見川を跡にした。