第32回
ぼくたちの「交通戦争」2 自転車事故の戦後史
小生が子供の頃は、高度成長期のまっただ中。県道には大型トラックが行き交い、自転車で遠乗りする際には何度もヒヤリとさせられた。当時はトラックの犠牲になる自転車が多く、事故防止の啓発映画を小学校の体育館で見せられたものだが、昨今は自転車が歩行者をはねる事故が増えており、死者まで出ているという。確かに、今年の春の全国交通安全運動(5月11日〜20日)では、「自転車の安全利用の推進」が目標の一つとして掲げられ、町中で自転車に対する検問が実施されていた。被害者から加害者へ、自転車はいつからその立場を替えたのだろう?そんな疑問を解決すべく、今回の昭和のライフでは「自転車事故の戦後史」を取り上げる。
1.車VS自転車への序曲 戦後〜高度成長期前夜
戦争直後、焼け野原となった日本では自転車は貴重品だった。更に自家用車を持つ者はほとんどいなかった。結果、表1にもあるように、昭和21年に車の犠牲になった自転車運転者は29名。そして、自転車の犠牲になった歩行者はわずか2名しかいなかった。
しかし、復興が進むにつれて自転車の数は急増、犠牲者の数もうなぎのぼりとなる。昭和30年に車にはねられて亡くなった自転車運転者は779名と、21年の20倍に達し、交通事故総死亡者の12.2%を占めた。その一方で、自転車にはねられて亡くなった歩行者も45名(21年の約23倍)に増え、交通事故総死亡者の0.71%を占めた。この「0.71%」という値は、平成17年の「0.09%」を大きく上回る。意外な感じがするが、数字の上では、昔の自転車の方が歩行者にとって脅威だったのだ。
この自転車事故の急増を受けて、当局は対策に乗り出した。自転車メーカーを所管する通産省は、自転車の品質向上と部品の互換性を目指して、昭和28年から自転車の各部品について順次JIS規格を導入(完成車のJIS実現は昭和37年)、自転車の修理業者や小売業者に対しても、業界団体を通じて指導・監督が行われた。昭和29年5月、東京都は通産省の通達に基づき、都下4千店の自転車小売業者の中から、816店を自転車サービスショップに選定、自転車に品質保証のカードを付け、正札販売、適価修理を励行させている。また、運転者の教育については、各地の警察が主体となって講習会が実施された。例えば、昭和29年10月、東京・愛宕署では、蕎麦店、青果店、鮮魚店などの店員120余名を集めて、「自転車交通事故防止講習会」を実施している。だが、このような対策もかかわらず、犠牲者は減るどころか増える一方だった。
2.車VS自転車の時代 昭和30年代〜45年
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日本が高度成長期に突入すると、自転車の数は更に増えた。所得の増加によって自転車が買い求め易くなったし、昭和33年4月には自転車税(地方税)が廃止されて税の重石も取れた。一家で、奥さん用、子供用と、複数の自転車が使われるようになり、この頃から子供のサイクリング熱が盛んになった。これを受けて、小中学生を対象とした「自転車教室」が各学校で開かれようになる。昭和33年6月には東京都大田区の中学校で区内の小中学生約300名を対象に自転車教室開催されたが、その内容は、校庭に白線を引いて踏切付きの模擬交差点を作って、通行区分、一時停止、右、左折など、自転車の交通ルールをたっぷり2時間教えるというもので、今と大きな違いはない。また、40年秋からは、全日本交通安全協会、日本学校安全会によって「自転車の安全な乗り方教室」が開かれるようになり、テストの合格者には「免許証」(法的拘束力はもちろんない)が渡された。この教室は国の委託事業として、昭和41年度から全国の小学5、6年生の1割、約37万人を対象にスタート、41年12月には「第1回自転車の安全な乗り方コンテスト全国大会」が開催され、ここで選ばれた4人の小学生は日本代表として、翌年5月、ローマの国際大会に出場している。(成績は14ヶ国中4位)学童に対する自転車運転教育は、その後も地元の警察の協力を得ながら、今日まで続けられている。
自転車教室が自転車事故に対するソフト面の対策であるとするならば、「自転車道」や「自転車・歩行者道」の設置はハード面の対策といえるかもしれない。昔の「道路構造令」(昭和33年施行)では、道路は「車道」、「緩速車道」、「歩道」に分けられ、緩速車道は主として自転車、荷車が通ることになっていた。ところが、現実は厳しかった。昭和34年5月に「東京オリンピックの昭和39年開催」が決まると、都内各所で大規模な工事が始まり、スピードを上げたトラックが道を行き交った。更に、昭和40年代に入ると「カー、クーラー、カラーテレビ」の「3C」がもてはやされ、マイカー族がこれに加わった。結果、車道からあふれかえった車が緩速車道を占領し、自転車は歩道に逃げ込まざるを得なくなった。本当は道路交通法違反なのだが、警察は運転者の身体・生命の安全を最優先し、これを黙認した。だが、輪禍に遭う自転車は後を絶たず、昭和41年にはとうとう犠牲者が1700名を突破した。事ここに及んで、道路の通行区分を抜本的に見直そうという気運が高まり、数年の検討を経て、45年に道路構造令は改正された。緩速車道は廃止され、自転車通行量の多い道路には「自転車道」が、自転車、歩行者とも通行量が少ない場合には「自転車・歩行者道」が設置されることとなった。現実は道路関連の予算が足りず、自転車道の整備の前に歩道の整備すらできていない所が多かったのだが、そういう道路でもとりあえず「自転車・歩行者道」という形で、自転車の保護が図られていくことになった。
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(右)歩道(左)自転車道、更に左に車道(千葉県習志野市) |
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3.自転車VS歩行者の時代 昭和46年〜現在
当局によるソフト面、ハード面の対策はある程度奏功し、表1のように、車の犠牲となる自転車は昭和46年以降、次第に減少した。52年には「自転車横断帯」が登場し、これが犠牲者の更なる減少に貢献した。当時、交差点内で直進する自転車が左折しようとする大型車に巻き込まれる事故が多発していて、51年の東京都内の自転車死亡者50名中、41名がこの犠牲になっていた。自転車横断帯とは、平たくいえば「自転車のための横断歩道」のこと。これが交差点に設置され、自転車がここを渡るようになれば、左折車は横断歩道同様、自転車横断中はその手前で一時停止しなければならなくなるので、巻き込み事故は起こらなくなるのだ。
このように自転車の犠牲が減っていくことは大歓迎なのだが、当局が苦肉の策として自転車を歩道に進出させたことが、やがて「歩行者への脅威」という形でしっぺ返しとなる。自転車が通行可能になった歩道には、当初自転車用部分と歩行者用部分を分けるために白線が引かれ、自転車は車道側を通行することになっていたのだが、歩行者と自転車が事故を起こした際に、行政側が損害賠償請求などの民事上の責任を問われるおそれが出てきたため、やがて白線が引かれなくなった。そのため、自転車が車道寄りを走ることがなかなかできなくなり、歩行者との接触の危険性が増している。当局には、高速道路の建設が一段落したら、是非とも「自転車道」の整備に力を入れ、「歩行者、自転車、車の分離」という究極の対策を講じていただきたいものである。
さて、自転車は車ほどスピードが出ないので、事故が起こると、「負傷」で止まることが多い。そこで、表2、3で自転車乗用中の年齢別負傷者数の推移を見ることにしよう。これを見ると、昭和49年を底にして、総負傷者数が再び増加に転じていることがわかる。
各表にある、「総負傷者中の未成年の割合」&「成人の割合」に注目すると、昭和47年以降50年代半ばまでは、未成年者の割合が増えていたことがわかる。その原因は主に、49年あたりから中学、高校生の間で流行した、3段〜10段変速のドロップ・ハンドルの高速車にある。このタイプの自転車の最高速度は40Km/hにもなるが、運転姿勢が前傾になるため、事故を起こす際には前方がよく見えず、激突することが多かった。最悪、死者を出すこともあり、事実、昭和50年代には、自転車の犠牲となる歩行者の数が2ケタになった年があった(表1)残念ながら、自転車には車のような強制賠償制度はない。遺族は事故を起こした未成年者から十分な補償を受けることができず、泣き寝入りするしかなかった。
平成に入ると、総負傷者中に占める未成年者の割合は減少に転じ、成人の割合が増えてくる。「20〜49歳」、「50〜59歳」、「60歳〜69歳」、「70歳以上」の割合のうち、「50〜59歳」を除いて、いずれもが増加傾向となっているが、直近平成17年のデータを道路構造令改正直後の昭和46年のデータと比較すると、「20〜49歳」、「50〜59歳」、「60歳〜69歳」は、おおむね当時と同じ割合かそれ以下となっているが、「70歳以上」は10.7%と、昭和46年の6.2%に比べて目立って増えている。自転車を運転できる元気なお年寄りが増えることは喜ばしいことだが、通行中、いざという時にとっさのハンドル操作ができないため、このような数字が現れるのだろう。自動車の運転者が70歳以上になると、法律で免許更新時に高齢者講習を受けることが義務付けられているが、自転車にはそのような制度がない。そこで、地方自治体の中には、独自に高齢者を含む成人を対象に自転車教室を開催しているところがある。
例えば、東京都荒川区では公園に自転車教習用コースを設けて、子供・成人の区別なく、月に1度「自転車運転免許講習会」と銘打って実施している。この講習会では実技の他に、交通ルールの講義や簡単な筆記試験があり、参加した小・中学生には運転免許証(法的拘束力はない)が、その他の参加者には「講習修了証」が交付される。もしかすると、あなたのお住まいになっている自治体でも同様の取り組みを行っているところがあるかもしれない。ご興味のある方は、一度最寄りの役場に問い合わせてみてはどうだろう。
[参考文献 |
(財)自転車産業振興協会編『自転車の一世紀』ラテイス 昭和48年 |
『朝日新聞』昭和29年5月21日付朝刊8面 |
同 昭和29年10月27日付朝刊8面 |
同 昭和33年6月2日付朝刊8面 |
同 昭和35年1月30日付朝刊12面 |
同 昭和40年7月27日付夕刊6面 |
同 昭和42年5月8日付朝刊14面 |
同 昭和42年7月4日付朝刊14面 |
同 昭和45年9月29日付朝刊2面 |
同 昭和51年9月4日付夕刊6面 |
同 昭和52年4月2日付朝刊20面 |
同 昭和58年2月28日付朝刊21面 |
荒川区の「自転車免許」のHP
http://www.city.arakawa.tokyo.jp/
a001/b004/d04400022.html] |
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2007年5月25日更新
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