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第26回「カモ井ハイトリリボンは
なぜ「ハエ」ではないのか」の巻 |
生まれてこのかた三十五年、ずっと千葉市に住んでいた。木造平屋建てのわが家の便所は、汲み取り式だった。狭い個室の中にはカレンダーを始め、造花やトイレ防臭ボールなどが吊るされていた。そしてハイトリリボンも天井からぶら下がっていた。いったい、いつごろから吊るされていたのか、そのリボンにはハエがびっしりとくっついており、風が強い日には、すきま風に吹き飛ばされたハエが床に落ちていた。しゃがんだ姿勢から立ち上がると、ちょうどいい高さにリボンがあるものだから、ふとした拍子に頭の毛が粘着テープについて困ってしまうことがあった。買い物に行かされていた魚屋さんにもリボンが下げてあり、空中をすごい勢いで飛ぶハエが、なぜリボンをよけることができずにくっついてしまうのか、子ども心に不思議だった。ハエの頭の良し悪しと関係あるのだろうか。
ハイトリリボンはまず、ハイトリ紙という形で大正十二年に登場した。
「当時は衛生状態が悪く、病原菌の運び屋であるハエの駆除が大きな社会問題でした。ハイトリリボンを使おうとしても、ドイツからの輸入品で値段が高く、お金持ちの家庭でしか使えませんでした」(カモ井加工紙株式会社)。カモ井加工紙の創業者鴨井利郎氏は海産物や食品を扱う問屋などの話から欧米にハイトリリボンがあるという情報を得ていた。「なんとか使いやすい値段で作れないか」と考えた創業者は、まず、リボンではなく平型のハイトリ紙を苦心の末、国産化した。テレビやラジオが普及していないころで、販売にはチンドン屋などを使って全国へ広めていった。
テープに粘着のりを塗ったハイトリリボンが発売されたのは昭和五年。ハエの習性として空中を飛ぶハエと、比較的地上に近い位置に降りてくるハエがある。前者にはリボンで、後者のハエには平紙で補虫した。ハエが止まる習性を利用したもので、止まったハエは「多分五分以内で死ぬでしょう」という。ハエが茶色いものを好むことから、粘着テープは茶色だ。当初は十本の箱入り。効果は通常十日間で一本で約三〇〇匹が捕れるという。
リボンが入っている筒の下部には、受け紙という紙がある。これはリボンについたハエが身動きして落ちてきたときにも、テーブルの上などに落下しないようにつけたもの。「安心感があるという実用面と、装飾的にきれいだという意味もあります」。
売上のピーク時は昭和三〇年代。高度成長時代で、食べ物が豊富になるし、ハイトリ紙を購入できる程度の収入も各家庭にあったから、毎年生産に追われっぱなしだった。現在、国内需要は昔の五分の一に減っているがまだまだ必要としている人は多い。食品メーカーは工場の入り口にハイトリリボンをぶら下げ、ハエがいないかどうか検知する。ハイトリ紙で退治するというより、調査するという役割に様変わりした。ハエの発生が減ったことについて、住宅地の整備や衛生思想の普及を挙げる人は多い。しかし同社は「水洗トイレの普及もそうでしょうが、やはりごみ処理収集システムの変化でしょうね」という。昔は各家庭の玄関先にフタつきのゴミ箱が置いてあり、ビニール袋もない時代は生ゴミを新聞紙でくるんで捨てていた。しかし今はビニール袋に入れて、朝ゴミを出し、それを収集車がスピーディに回収していく。
殺虫剤は即効性があるが、食べ物の近くでは使えない。また、たびたび使うとハエに耐性ができやすい。ハイトリリボンは人畜無害で手間がかからないのが特徴だ。特に赤ちゃんやペットがいる家では重宝するだろう。唯一のウィークポイントとしては、手や頭が粘着リボンに触れてしまうことだが、ベンジンを使えばはがれるという。いわば環境にやさしい商品であるハイトリリボン、ハエを取って、いなくなるほど、売上が下がるという矛盾を抱えながらも今後もしぶとく生き残っていって欲しい。
なぜハイというか。カモ井がある岡山県ではハエのことをハイと発音するのである。
●毎日新聞を改稿
2006年10月20日更新
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