第34回 虫売りの今昔−鳴虫、鳴かない虫−
小生が通っていた昭和40年代の新興住宅地の小学校には、様々な行商人がやって来た。下校時の校門横に、ある時は口中笛(キューピー人形のへその所にあって、キューピーをを押すと「プー」と鳴る「リード」に似ていた)の行商人が、またある時はカラーひよこ売りが、そして夏休みが近づくとどこからともなくカブトムシ売りがやってきた。
カブトは縦、横、高さ1m位の金網の箱に入れられ、校舎から吐き出された子供達を待ちかまえていた。小学1、2年生はそのつやつやとした黒褐色のボディーに釘付けになったが、5、6年生はちらっと見ただけで、その横をすり抜けて行った。実は、小生の学区の外れには雑木林があり、自転車に乗って遠征すればカブトやクワガタはいくらでも手に入った。そんなローカルな事情に疎かった行商のおじさんは、お小遣いの少ない低学年生を相手に熱心なセールストークを繰り広げていた。彼は1〜2日で姿を消したが、おそらく思い通りの売上は上げられなかったと思う。
当時、都会のデパートでは夏休みになるとカブトムシやクワガタムシを売るコーナーが設けられ、子供達が殺到したというが、自然豊かな郊外ではそんな現象は起こらなかった。しかし昨今は、地方のスーパーでも外国産のカブトムシが売られている。一体、この30年あまりで何が変わってしまったのだろう?今回の昭和のライフでは、「虫売り」の今昔について取り上げようと思う。
1.「虫聴」と江戸の虫売り
江戸時代に、「虫聴」という遊楽があった。これは夏草の茫々と生い茂った中に分け入って、紅の毛氈を敷き、酒を飲みながら松虫・鈴虫の音を聴くというもので、麻布の広尾ガ原や田端の道灌山が名所だった。実に雅な遊びだが、江戸の市域が拡大するにつれてこういった名所は次第に失われ、その代わりに籠に入れた虫が盛んに売られるようになった。
江戸時代から大正にかけての「虫売り」は、鈴虫、キリギリスといった「鳴く」虫が中心で、菊池貴一郎『絵本江戸風俗往来』(明治38年)によると、江戸には市内在住の虫売りと近郊在住の虫売りの2種類がいたようだ。前者は鈴虫・松虫・クツワムシ・カンタン・蛍など様々な虫を問屋で仕入れて売り、後者はキリギリスやクツワムシを自ら捕って江戸に持ち込み、お手頃価格で販売していた。虫の販売は旧暦の6月上旬から7月盆前までで、人々はお盆になると飼っていた虫を逃がしてやった。この「虫を逃す」という心優しい風習は、「放生会」(仏教の不殺生の思想に基づいて、捕らえられた生類を山野や池沼に放つ儀式。旧暦8月15日に実施)の精神に通じるものがある。
2.明治の虫売り事情と『虫供養碑』
若月紫蘭『東京年中行事』(明治44年)には、明治末年の虫売り事情が詳細に記されている。それによれば、東京の縁日で虫売りが登場するのは、例年5月28日の不動の縁日からで、市内には養殖した虫を卸す問屋が3軒あった。表1は、明治44年の売り出し初めの虫の価格一覧だが、八王子辺りで捕れた野生の虫が出回るにつれて価格は下落、殊にキリギリスは1匹3〜5銭になってしまったという。
また、虫売りの数は天保の改革の時には府下36人に限られたが、明治末には大幅に増加して、年々虫の季節だけ千葉辺りから出てきて縁日や夜店で商いをする者だけでも6、70人は下らなかったとの事。千葉県の長生村岩沼地区には『虫供養碑』(大正12年建立)という碑が立てられているが、この碑によると、当地の虫売り業は、幕末に川城福松なる人物が鳴虫を捕らえて江戸に売り込んだのが始まりという。岩沼では成虫を東京下町の本所・深川・墨田向島・早稲田等の問屋に卸していて、昭和初期までは、上りの一番列車は東京の問屋に虫を運ぶ虫売りの人達で賑わい、車内は虫の鳴き声で騒がしかったと伝えられている。また、この地で採れるメダケを材料に40軒余りの農家が副業で虫籠を作るなど、当時の岩沼にとって昆虫は一大産業だった。
3.鳴虫から鳴かない虫へ
長生村の『虫供養碑』が立てられた大正後期、虫売り業に翳りが見えてきた。活動写真や蓄音機の普及、ラジオ放送の開始(大正14年)など、人々の耳目を楽しませるハイカラな媒体が登場し、旧来の虫の音を聴く習慣を圧迫した。鳴虫の虫売りは戦後も続き、昭和33年8月20日付の『朝日新聞』(朝刊、10面)では、江東地区にキャリア30〜40年の虫売りが約30人いると紹介されている。しかし、町中を流して歩く虫売りは次第に姿を消し、今日では縁日や夜店でたまに見かける程度になった。
高度成長期に入ると、虫はデパート屋上の特設会場で売られるようになる。この催事は夏休みの子供向けに企画され、スズムシ・キリギリスといった鳴虫ではなく、カブト・クワガタといった甲虫類に人気が集まった。昭和41年、上野・松坂屋の屋上で初めて開催された際には、売る虫は店員が採集したり、農家から直接仕入れて確保された。それが翌年になると昆虫専門の卸商が入るようになり、オタマジャクシ・カエルは都下や福島県、ザリガニは熊本県や岐阜県、タナゴ・ナマズは千葉県、カタツムリは岐阜県から、といった具合に全国各地から昆虫や小動物が集められるようになった。
松坂屋の催事が当たりを取ると同業他社も黙ってはいない。全国各地のデパートで同様な催事が行われ、昆虫の仕入れ価格・販売価格は上昇した。41年のカブトの販売価格は1匹70円。それが42年には100円、45年には80〜350円になっている。大都会・東京での価格が全国一高いかといえば意外にもその逆で、表2にある通り、一番安くなっている。東京のデパートがいち早く仕入れルートを押さえたため、後発の地方のデパートは業者に足下を見られて、高値で仕入れざるを得なかったのだろう。
ところで、子供達はなぜ昆虫を買い求めたのだろう?調べてみると、昭和40年代前半は夏休みの昆虫採集や自然観察のために、40年代後半以降は珍しさやペットにするために、購入することが多かったようだ。これは、都市化が進展するにつれて都心から昆虫がいなくなり、都心の小学校で標本を作る宿題を出せなくなったことが、背景にあるのかもしれない。
ところで、この昆虫ブームを新聞等で見て行商を思い付いたのが、先の「校門のカブトムシ売り」ではないだろうか?当時は宅地開発が盛んで、都市近郊の雑木林は次々に消えていったが、それでも尚、今日に比べればクヌギやコナラの林があった。運良くそこでカブトを捕ることができれば、濡れ手で粟の一儲けができる…。売りに行く学校の学区環境を事前に把握することができれば、ある程度の売上は上げられたのではないか。
4.子供の虫離れと回帰
昭和60年代に入り、昆虫に代わってテレビゲームが夏休みの子供の無聊を慰めるようになると、デパートでの昆虫バーゲンは一時下火になった。大手の養殖農家が続々廃業し、カブトの出荷は減少した。その一方で、成人を中心にオオクワガタの飼育ブームが起こった。力強い姿、数年に渡る寿命、サイズによっては1匹十数万円〜数十万円の値が付く利殖性に、マニアはたちまち魅せられた。山奥に分け入ってクワガタの住みかになるクヌギの台木を傷付けて地主とトラブルを起こしたり、空調のきいたクワガタ専用の養殖ルームをマンションの一室にしつらえる者も現れた。この「黒いダイヤ」熱は平成に入っても続いたが、養殖物が出回るようになると次第にその価格は低下していった。
このブームは子供へも伝播したが、子供達は高価なオオクワガタにはなかなか手を出せず、代わりにカブトやノコギリクワガタを買い求めて卵を産ませ、卵が成虫に育つ過程を観察して楽しんだ。昆虫や専用のエサ、飼育セットはデパートのみならず、郊外のホームセンターでも売られるようになり、子供の虫離れにブレーキがかかった。
表3は、その頃の平成5年におけるカブト・クワガタの値段であるが、表2と比べ、カブトの雄の価格は2〜10倍しているものの、全国的な価格差は小さくなってきている。おそらく、昆虫の「商品化」が進み、需要のある地域に十分な数の虫を供給できる体制が整えられたからだろう。
オオクワガタのブームが一段落すると、外国産の甲虫がブームとなった。外国産でも、大きいもの、形が変わったもの、美しいものに人気が集まり、従来は標本として日本に入っていた虫の卵や生きた成虫を密輸し、ひそかに育てるマニアが現れた。外国産の昆虫は日本の農作物に被害を及ぼす可能性があるため、海外から持ち込むことは植物防疫法で禁じられ、空港などで見つかった場合没収処分となる。平成8年のクワガタムシ科の処分数は1057匹、翌9年は413匹だった。
当局の方針に変化が訪れるのは、平成11年の事。クワガタの輸入を認めてほしいという声を受けて、4月にオーストラリア産の「ニジイロクワガタ」の輸入が解禁された。これは調査の結果、無害の確認が取れたためで、他の種類についても無害の確認が取れれば解禁する方針が示された。(現在、植物防疫法の規制を受けない昆虫類の一覧は、農林水産省植物防疫所のホームページ上で公開されている)
平成15年にはセガが『甲虫王者ムシキング』というアーケードゲームを稼働させたが、このゲームは「ムシカード」と呼ばれるカードをスキャンして甲虫を呼び出し、じゃんけん方式でバトルするもので、小学生の間で人気となっている。カードの甲虫には国産の虫だけではなく外国産の虫も含まれるため、このゲームをきっかけにして子供達の間で外国産の甲虫の飼育熱が高まっている。今日、地方のスーパーに行くと、玩具コーナーの片隅で、生きた「コーカサスオオカブト」や「アトラスオオカブト」が売られているが、雑木林でカブトを捕っていた小生にとっては隔世の感がする。
昔、鳴虫はお盆になると野山に放されたが、外国産の甲虫は自然の生態系を破壊する可能性があるため、放すことは戒められている。飼育ケースの中で生を終えるまで愛情込めて育てるよう、親御さんには指導を望みたい。
[参考文献 |
若月紫蘭『東洋文庫106 東京年中行事1』平凡社 昭和43年 |
菊池貴一郎『東洋文庫50 絵本江戸風俗往来』平凡社 昭和40年 |
新村出編『広辞苑(第3版)』(岩波書店 平成2年)「放生会」の項 |
『長生村五十年史』長生村 平成17年 |
『朝日新聞』昭和42年7月15日付夕刊10面 |
同 昭和45年8月4日付朝刊13面 |
同 昭和63年6月7日付朝刊19面 |
同 平成5年8月7日付夕刊7面 |
同 平成11年8月12日付朝刊22面 |
同 平成18年7月29日付e4面] |
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2007年7月25日更新
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