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アカデミア青木

フグ

第38回 フグが美味しい季節になりました


 小生が初めてフグを食べたのは社会人1年生の時。冬のボーナスが手に入ったので、大阪・梅田のフグ料理店へと1人出掛けた。フグ刺し、フグちり、フグ雑炊、ひれ酒など一通り頼んで、8千円はしなかった。数年後東京に転勤となり、神田で食べる機会があったが、その時は倍の1万5千円。場所が変わるとこれ程までに値段が違うのかと、びっくりした思い出がある。
値段の事はさておいて、美味しいフグには毒がある。我々はどのようにして安全にフグを味わえるようになったのか?今回の昭和のライフではそこら辺りを中心にして、フグについて眺めていきたい。

1.フグ食の歴史
 縄文時代の貝塚からフグの骨が出てくることからもわかるように、日本人は古くからフグを食べていたようだ。しかし、フグには毒があるため、気軽に食べられる魚ではなかった。フグ料理に関する文献で最古のものは室町時代末期頃成立した『大草家料理書』で、ここには「ふぐ汁の料理法はさしつかえがあるので削除した。どうしてもつくる場合には、汁の中にシキミや古い家屋のすすを入れぬように注意する必要がある」というような記述がある。当時の武家社会ではフグ食は慎まれていたのだ。豊臣秀吉による朝鮮出兵の際には、下関(山口県)に参集した山国育ちの兵達がフグを内臓まで煮て食べ、死者が続出、フグの禁食令が出されているし、江戸時代に入っても、例えば長州藩では、フグを食べて死んだ者の家は永久に断絶になったという。
 しかし、フグの魅力は断ち難かったようで、時代が下るにつれて武家の間にもフグ食が行われるようになる。江戸の町医者だった小川顕道(1737〜1815年)は自著『塵塚談』の中で、自分が若かった頃の武家は決してフグを食べなかったが、最近は食べるようになって、フグの値も上がったといっている。身を慎むべき立場にない町人にとっては、フグは馴染みの魚の一つだった。井原西鶴は作品中にしばしばフグ汁を賞美する民衆を描いたし、伊賀上野の藤堂藩を去って俳諧の道に進んだ松尾芭蕉も「あら何ともなやきのふは過ぎてふくと汁」の句を残している。
 明治維新を迎えると、支配者層だけではなく、民衆にもフグ食の規制がかけられるようになる。当時の軽犯罪法には日本の欧米化を推進するために風俗を改良する条文が盛り込まれていたが、明治9年に公布された大阪府の『違式註違条例』にはフグの売買を禁じ(註違罪目第二十四条)、違反者には5銭以上7銭未満の罰金を科す規定があった。また、政府はフグ中毒の増加を受けて、15年に発布した『違警罪即決令』の中に、フグを食べる者に拘置科料を科す規定を盛り込んだ。そのため、人々は蔭でこっそりフグを食べる際に、「てつ」(大阪)、「丸」(九州・山口)などの暗号を用いるようになった。今、大阪でフグ刺しを「てっさ」、フグちりを「てっちり」と呼ぶが、それはこの時の名残という。
 このフグ食の禁令に風穴が開いたのは、明治21年。初代内閣総理大臣を務めた伊藤博文(山口県出身)が下関の「春帆楼」という料亭を訪れたところ、店側は時化続きで供せる魚がフグしかなかったため処罰覚悟でこれを出し、その味に感動した伊藤が県知事に働きかけて県下のフグ食を解禁した。25年には東京で内臓を取り除くことを条件にフグの販売が解禁され、30年頃からは下関の対岸・福岡県門司市でもフグ料理が始まっている。ところが、大阪では「フグ暗黒時代」が長いこと続き、許されたのは戦争によって食糧が少なくなる昭和16年9月になってからだった。

下関


2.フグ毒とは
 フグに毒があることは昔から知られていたが、そのメカニズムが解明されたのは最近の事だ。フグ毒は、明治42年、東京大学の田原良純に学術的に報告され、フグの学名Tetradontidae(4つの歯を持つ、という意)とToxin(毒の意)から、Tetrodotoxin(テトロドトキシン:TTX)と名付けられた。その構造は昭和39年4月に京都で開催された第3回国際天然物化学会議の席上で、東京大学の津田恭介、名古屋大学の平田義正、ハーバード大学のウッドワードの3グループから別々に発表された。水にも有機溶媒にも溶けにくい弱アルカリ性の物質で、耐熱性があり、摂氏300度に加熱しても分解されない。46年10月には名古屋大学の岸義人らが合成に成功、翌年1月には純粋な結晶が取り出されている。
 TTXは神経毒で、誤って摂取すると、唇や指先のしびれ→運動の麻酔→歩行困難、舌やノドの麻酔→ものの飲み込みや会話が困難、血圧低下、呼吸困難、全身の反射機能が消失、最後には呼吸が止まって死に至る。ヒトの致死量は約2mgだが、これは青酸カリの100倍の強さで、1匹の雌フグの卵巣で、マフグなら33人、トラフグなら13人の命を奪うことができる。
 TTXはフグ以外にも、カリフォルニアイモリやヒョウモンダコ、ツムギハゼなどから見つかっている。これらの間には遺伝的なつながりがなく、人工海水や濾過した海水を使って陸上で養殖されたフグにはTTXがないことから、TTXはフグ自身が作り出す毒ではなく、外部起源であると考えられた。その後、毒の起源と推定された海草からTTXが検出され、更なる研究の結果、海草の表面に付着している微生物がTTXを合成していることが突き止められた。この微生物は「シュワネラ・アルガ」と命名され、現在この他にも海洋細菌のいくつかでTTXを生産するものが認められている。海洋微生物由来のTTXが、食物連鎖の進行に伴い生物の体内で濃縮され、食物連鎖のピラミッドの上位にいるフグの卵巣や肝臓に蓄積されたものが、フグ毒なのである。また、フグの種類によっては、皮膚や腸、睾丸に毒をもつものがいる。

3.フグ料理の普及と食中毒対策
 伊藤博文の尽力でフグ食は解禁の方向へと向かったが、その料理の技術は秘密とされ、専門店や料亭の中で密かに伝承されていった。そのため、素人が断片的な知識を元に調理を試み、失敗して死に至る事例が後を絶たなかった。「河豚は食いたし、命は惜しし」という言葉があるように、世間はフグを「危険な魚」と見ていたのだ。
 昭和5年、こんなフグの持つマイナスイメージを打破すべく、東京ふぐ料理連盟が結成された。連盟は調理法を講習会で組合員に公開し、フグの毒素を除けばフグが安全であることを世に認めさせた。また、第二次大戦中の食糧難の際には、今まで漁場で廃棄していたフグを築地の中央市場に出荷するよう要請、完全除毒したフグの雑炊を都の雑炊食堂で提供している。これをきっかけに、都下のフグの需要は年々増加していくことになる。
 戦後、フグが庶民に身近な魚になったことは喜ばしい事だが、その反面、中毒で命を落とす人は後を断たなかった。表1は、昭和27年以降のフグ中毒の推移を示しているが、戦後の復興が進むにつれて死者は増加、33年には年間で176人が亡くなっている。

 これに対して各都道府県では、中毒を根絶すべくフグの取り扱いを定めた「ふぐ条例」を制定、フグの調理・販売を厳重な管理下に置いた。条例を最初に制定したのは、食い道楽の街・大阪で、昭和23年の事。フグを取り扱おうとする調理師に専門知識と技能の講習を受けさせて、修了後「ふぐ処理師」の資格を与えた。東京では翌24年、東京都衛生局がふぐ連盟の協力を得て、「ふぐ調理師試験」を実施した。青木義雄著『ふぐの文化(改訂版)』(成山堂書店、平成15年)によれば、その後、京都(25年)、愛媛(27年)、香川(28年)、熊本・宮崎(33年)、鳥取・神奈川(34年)、鹿児島(35年)、高知(36年)、滋賀(48年)、岡山(49年)、千葉(50年)、愛知(51年)、静岡(52年)、奈良・福岡(53年)、山口(56年)で条例が制定されているが、都府県によって条例の名称、試験制度、資格の呼称(「ふぐ調理師」、「ふぐ処理師」、「ふぐ包丁師」等)などがバラバラで、全国的には統一されていない。
 この条例はフグ中毒の防止にどれだけ貢献したのだろうか?そう思って作成してみたのが、表2である。

    

 これを見ると、フグの年間中毒死者数が100人を超えていた昭和30年代前半は、山口県と福岡県が1、2位を占めていた。山口の下関港はフグの水揚げ日本一だし、福岡県は関門海峡を隔ててその対岸にある。現地ではフグ料理は郷土料理として位置付けられ、料理屋だけではなく、こっそり自宅でも調理された。また、それを禁ずるはずのふぐ条例の制定が福岡県で昭和53年、山口県で56年と遅れたことも一因なのかも知れない。期間を広げて、昭和27〜44年にかけて上位3位以内に顔を出す都府県の頻度を集計してみると、1位は広島の12回、2位は山口の10回、3位は福岡の9回、4位は兵庫・愛媛の8回、5位は岡山の6回となっている。このうち、当時ふぐ条例を施行していた県は愛媛(27年制定)だけで、広島・兵庫に至っては今日もなお条例を制定していない。愛媛の頻度が高いのは、当時フグの本場だった豊後水道や瀬戸内海に囲まれて容易にフグが手に入り、見よう見まねの素人料理で命を落とす人が少なくなかったからだろう。
フグで犠牲となった人は、表1にある通り、日本の食中毒死者全体の半分を超えている。そして、フグ中毒の死亡率は、昭和30年代には6割近くに達していた。しかし、これが40年代に入ると低下していく。フグに当たった際には、応急処置としてフグの消化が進む前に一刻も早く自ら嘔吐し、速やかに設備の整った病院に搬送することが求められるが、この毒と応急処置の知識がふぐ調理師試験を通じて関係者に徹底された事、フグを自宅で調理することが極めて危険であると世間で認識されるようになった事、そして昭和38年以降消防法が改正されて各自治体が救急車の配備を進めた事などが、死者減少に寄与していると思われる。
関係者の不断の努力により、フグによる死者はその後も減り続け、平成12年にはついに年間死者がゼロとなった。昨今は養殖フグが広く出回り、フグ料理の価格も昔に比べると安くなってきている。ただ、フグを安全に食べるためにはそれなりの処理が必要だ。低価格にこだわり過ぎて食の安全がおろそかにされないよう、祈りながら美味しいフグを味わいたい。

供養碑


【参考文献】
  『世界大百科事典』平凡社 昭和63年 の「フグ」の項
  『日本大百科全書』小学館 平成6年(2版)の「フグ」の項
  『2005年東京大学薬学部五月祭パンフレット』の「テトロドトキシン」の項
  入沢文明編『たべもの東西南北』日本交通公社 昭和29年
  朝日新聞西部本社社会部『ふぐ』朝日新聞社 昭和57年
  『朝日新聞』昭和40年1月12日付夕刊5面
  同 昭和47年6月22日付夕刊5面
  『ふぐ供養碑』碑文(上野・不忍池) 東京ふぐ料理連盟 昭和40年

下関市の「フグ中毒を防止しよう」 HP↓
http://www2.city.shimonoseki.yamaguchi.jp/icity/browser?ActionCode=content&ContentID=1106196415853&SiteID=0


2007年11月21日更新


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