里帰りの話に戻しまして、今回ご紹介するのは、最終日に宿泊した"皆生温泉"の絵葉書5枚です。まず1枚目は、昭和30年代頃の葉書で、ボンネットバスが、ずらりと並んでいます。その数は見えるだけでも8台! たくさんのお客さんがいらしたのですね。和装姿の女性が多く写っていますが、旅館の方なのでしょうか。皆生温泉の看板もステキで、上に描かれた温泉マークもいい感じです。
ほかの4枚をご紹介する前に、皆生温泉の生い立ち(?)を、少しだけご紹介します。歴史はさほど古くなく、大正10(1921)年に温泉源を堀りあてたことにより、大正11(1922)年から温泉旅館が次々と開業したそうです。米子駅から皆生温泉までの7キロほどの道のりは、同年7月より、フォード製の幌型バス(12人乗り)の運行がはじまったそうですが、故障が多く、翌年には車両を全部タクシー会社に売却したとか。次にできた交通手段が、路面電車です。その名も"米子電車軌道"。なんと、3年後の大正14(1925)年に開業したという、すごい早さに驚きました。皆生温泉への期待の大きさが、うかがい知れますね。
けれど、時代が悪かったのでしょう。昭和恐慌の影響でお客が減り、赤字が続き、経営陣も変わる中で、陸軍米子飛行場(現・陸上自衛隊米子駐屯地)が建設され、資材等を運搬するにあたり、軌道は貨物輸送の障害になるという理由で、昭和13(1938)年に撤去されたそうです。つまり、米子駅と皆生温泉を繋いだ米子電車軌道は、17年間だけ走った幻の路面電車なのでした。現に、私もその存在を知ったのは、東京にきてからで、皆生に停車している路面電車の絵葉書を見せていただく機会があり、驚いたことをよく覚えています。
2枚目にご紹介するのは、皆生温泉の大きな看板が、門のように両端に建った絵葉書です。建物の姿は見えず、松林と電信柱、そして、看板の左端を通る、ヨロヨロとゆがんだ線路が、ものすごく気になります。これは、もしや路面電車の線路なのかと思ったのですが、電車が走るには、どう見ても狭すぎますし、だいたい架線もありません。電車の線路じゃないということは、大正11年から14年までの、路面電車が走るまでに、撮影されたモノだと思われます。想像するに、温泉を掘りあてた時にトロッコを使ったのか、もしくは路面電車を通すにあたって、工事で使ったのではないでしょうか。絵葉書には、「皆生温泉三條通入口正面」と、右横書きで書いてあります。
3枚目は、「山陰米子皆生温泉(迎松ト三條通)」と書かれた絵葉書で、「皆生温泉 静養館 山陰線米子」のスタンプが押してあります。大きな松の木は、「迎松」と呼ばれていたのですね。先にご紹介した絵葉書にも写っています。看板の先の大きな松の木。新しく開業した皆生温泉で、たくさんのお客をお迎えし、お見送りしてきたのでしょうか。そして、やはり気になるヨロヨロ線路が、先まで続いています。右側には車の姿も。ちなみに、この絵葉書は米子広告社発行で、大正時代のモノだそうです(鳥取の古地図、絵葉書、鳥瞰図(やまちゃんのページ)を参考にさせていただきました。ありがとうございました)。
4枚目は、建物が写っています。人力車も停まっており、この人力車はどの辺りまで走ったのか気になります。そして、奥の車には「皆生温泉」の文字が大きく描かれ、幌付きの車であることから、よく故障したという、フォード製の幌型バスだと思われます。絵葉書には「皆生温泉三條通リ」とあり、以上3枚の絵葉書は、皆生温泉が開業して、間もない頃のモノだと思うのです。
それにしても、現在の皆生温泉からは、想像もできない景色ですが、昔はこんな感じだったのだなぁと、まじまじと眺めているのでした。そうそう、皆生には競馬場(草競馬?)もあったそうで、ますます想像できないのですが、これらの事業に尽力された、有本松太郎さんの銅像があったりします。有本さんは、理想的な温泉街をつくりたいと、京都の碁盤の目のような街づくりを目指されたとか。個人的には、米子電車軌道の路面電車が残っていたら、乗りたかったなぁと思い、少し残念です。
5枚目は「山陰線米子郊外皆生温泉場付近 日野川畔より大山の遠望」とあります。現在は堤防もしっかりつくってありますが、昔の日野川の河口って、こんな感じだったのですね。私も最終日に、日野川まで出てみましたが、大山は雲の中で見ることができず、残念でした。でも、日野川の河口は、日本海と川の間に砂浜ができていて、とても幻想的で、美しい景色を見せてくれました。
砂浜の先に見えるのが日本海です。