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日曜研究家串間努 第29回
「永谷園のお茶づけのりカード」の巻


東海道五十三次 子どものころ、お茶漬けは背徳的な食べ物だった。昭和40年代にはまだ、家族で食卓を囲むことが成立していたから、女性の社会進出が進んでいなかったころに主婦が「お茶漬け」を夕飯として出すことは禁じ手(いわゆる手抜き)にみられていた。おそらく、永谷園の「お茶づけ海苔」は地方から上京してきた学生や独身サラリーマンに受けたのだろう。
 昭和45年ころからマクドナルドやケンタッキーフライドチキンなどのファストフード、それから日清の「カップヌードル」に代表される、いわゆる「ジャンクフード」的な食べ物が増えてきた。しかし、体によくない「ジャンクフード」というのは、これらの食品が世の中に普及した後に、振り子が逆に振れるようにマイナス評価としてでてきたコトバである。実はこれらが登場早々のころは今とは逆に「ごちそう」であったのだ。

東海道五十三次 休日に、地方の盛り場に出かけてマクドナルドでハンバーガーを食べるのは子どもにとって大きな楽しみである。たいていの子どもは「いつか、ビックマックを2個食べる日が来るかなあ」と思っていた。パンが無くなるのをいとおしむようにハンバーガーのバンズを上と下の2枚に分割して食べたりと、いまのようにアンパン以下の69円だの59円の格安で、瞬く間に消費するような食べ方はできなかったのだ。

東海道五十三次 私は土曜日の晩に「仮面ライダー」を見ながら「カップヌードル」を食べるのが至福の時間だった。「カップヌードル」はラーメンのように見えてラーメンではない、まったく異なる食べ物だった。母親が手間ひまかけて作る家庭料理が最高とされていた時代に、ハンバーガーやカップラーメンを食べることは、お爺さんおばあさんら保守的な年配者層から糾弾されてしまう、ちょっといけないことだった。

東海道五十三次 このような背景があり、「お茶づけ海苔」も私の家庭にとっては、チープ過ぎるがゆえにめったに食べることができない即席食品だった。「まあ、そんなものかけて」という批判を浴びるのだ。ただでさえ、「お茶漬け」という食事が軽んじられているのに、さらにそれを即席食品で食べるのだ。お茶漬けが食べたいなら、鮭と昆布をご飯にかけて、醤油とわざびをちょっと垂らせ、といわれていた家庭のなかでなお、「お茶づけ海苔を買ってくれ」というのはワガママ以外のなにものでもなかった。
 市場には最初、プレーンの「お茶づけ海苔」しかなかったが、そのうち「さけ茶づけ」というのが発売されるようになった。「お茶づけ海苔」に入っているあられはとても硬くて、子どもの味覚にとっては「何か異物が入っている」としか思えない具材であったが、「さけ茶づけ」のほうのあられは丸くて柔らかかった。私はたちまちこちらのほうの大ファンになった。ところが、家では「鮭茶漬け」には本当の鮭を焼いて食えというので、「屋上、屋を重ねる」がごとく、「永谷園さけ茶づけ」を振りかけて、鮭もたべた。いったい、なにをやっているんだか。あと、「お茶づけ海苔」を振り掛けた時は、お茶ではなくお湯を掛けるべきなのかどうか非常に悩むところであった。。

永谷園のお茶づけ海苔

東海道五十三次 お茶漬けは江戸時代から、手軽にいつでも済ませられる食事として庶民に親しまれてきた。その即席食品化の「お茶づけ海苔」は、戦後生まれのアイデア食品としてヒットしたものの代表である。永谷園が昭和二十八年にスタートを切ると、ふりかけ業者、のり業者が次々にこの製品に参入した。昭和二十七年秋に映画「お茶漬けの味」(松竹・小津安二郎監督)がヒットしたことも流行のきっかけとなった。また、昭和三十年以降の米の豊作と共に、売り上げは上昇したといわれている。昭和三十四年ころからは販路も全国に普及した。製造技術の発展により、梅干し、さけ、たらこなど種々の具の取り込みも行われ、いまも成長を続けている。

東海道五十三次 お茶漬けのりの歴史をふりかえることは永谷園の歴史を語ることと同じである。
 「永谷園」は緑茶の開祖、永谷宗七郎の子孫が明治三十八年に宇治から上京して、東京の愛宕山下でお茶屋を開業したことからはじまる。永谷嘉男(現・名誉会長)の父親である永谷武蔵が大正六年に二十一歳で家督相続した。
 昭和十五年頃に永谷武蔵は軍隊を除隊し、お茶の加工品を研究しはじめる。発明家の武蔵は「グリーンテイ」・「こんぶ茶」・「海苔茶」などを次々に考案。この海苔茶を改良し、細かく海苔を切って調味粉を別に和紙包装したものがヒット。これがのちのお茶漬けのりにつながるという。つまり「お茶づけ海苔」のはじまりは、昆布茶や桜茶のようなバラエティ・ティーだったのだ。また、戦前にAの缶に短冊型に細かく切った海苔を、Bの缶に調味粉末をいれ、一つの箱に納めて「即席おつゆ」として売り出したという。名前ははっきりしないというが、今風にいえば、お湯で溶くだけでできあがるインスタントおつゆということらしい。

東海道五十三次 武蔵は非常にアイデアマンで、当時、ざるそばにかける海苔が、もみのり(手でもんだような海苔)だったことに目をつけ、短冊型の海苔を売り出した。これは手間が省けていいとそば屋から好評をもって迎えられた。実は、そば切り機でのりを切ったのである。これに「なーんだ」と気が付いた日本そば屋がでてきて途中で挫折する。

東海道五十三次 お茶づけ海苔が誕生は、武蔵の長男である永谷嘉男が、ある日、お茶づけを家庭で手軽に食べられないだろうかと思いついたことにはじまる。そのとき嘉男が参考にしたのが自家製造していた海苔茶。海苔茶を飲み物としてではなく、ごはんにふりかけてお茶漬けに応用したわけだ。
 お茶づけ海苔に丸いあられを入れるかどうかは永谷家の中でも反対意見があったという。私も反対である。固いあられを箸でつまんでとり除いていたくらいだ。友人に煎餅をかち割ってお茶漬けにふりかける奴がいるが、どうしても長い方のあられは硬くて好きになれない。
 歌舞伎の定式幕を模した包装のデザインも嘉男の案という。お茶漬けから江戸、江戸情緒は歌舞伎、という連想をもとにした。和風なだけに地味だけど、パッと目に入るデザインに勝てるパッケージは今後もうでてこないだろう。創業メーカーとしてシェアは常に八割を誇る。お茶漬けのりといえば永谷園、のイメージをくつがえす企業が現れることはありえないと思う(敬称略)。

「東西名画選セット」

東海道五十三次 お茶づけ海苔を食べると、東海道五十三次カードがついていた時代があった。まだ子どもだったから、どちらかといえば「仮面ライダーカード」のほうが魅力があったけれど、複数種類のカードだったからコレクションをしたいと思った。しかし、冒頭に書いたような家庭の事情と、子どもがこづかいで買う商品ではなかったので、蒐集は断続的で1年かかって数枚集まるのがせいぜいだ。
 昭和四十年代は子どもの身の回りにも東海道五十三次が満ちていた。マッチのラベルや記念切手(国際文通週間)のデザインによく使われていた。コミカルな2人組が東海道を旅する物語、「弥次さん喜多さん」も図書室で良く読んだ。そして永谷園のカードである。
 永谷園のカードキャンペーンはいまから思うとよく考えられていたものだと思う。五十三次をすべて集めようと思ったら最低五十三個は商品を買わなくてはいけない。しかし途中で当然重複も出るだろう。百個くらい買えば揃うだろうか。
 だから、カードそのもの二〇枚と返信用切手を送ると1セットもらえるというキャンペーンはすばらしい。だぶっていてもいいから二〇枚集まれば、揃うのだ。あまり高度が高い山は登ろうとは思わないが、手近で低い山なら足を向けてみようという気持ちにもなるものだ。
 永谷園の話によると、「東西名画選セット」は、昭和四十年に永谷園の文化形成とファン作りのために、永谷宗次(現・相談役)の発案で始められたという。お金持ちになって、世界の名画を目玉の飛び出る値段で購入する実業家とは違い、消費者の教養を育もうとする発想が良い。いうなれば本業以外のことであって手間と暇がかかるのに、約三十年も続けているということは、営利追求だけではないメーカーの姿勢が感じられる。しかも継続の努力だけではなく、三十年の間には種類が増えているのだ。一覧表を下記に掲載する。

セット名

枚数

開始年月日

安藤広重 東海道五十三次

55枚

昭和四十年〜

喜多川歌麿

44枚

昭和五十四年七月〜

東州斎写楽

44枚

昭和五十四年七月〜

葛飾北斎 富嶽三十六景

46枚

昭和五十四年七月〜

ルノワール

40枚

昭和五十五年八月〜

ゴッホ・ゴーギャン

44枚

昭和五十五年八月〜

印象派
(マネ・セザンヌ・ドガ・スーラ)

44枚

昭和五十五年八月〜

シルクロード・中国編    47枚

47枚

昭和五十八年一月〜

竹久夢二

44枚

昭和五十九年六月〜

日本の祭り

50枚

昭和六十二年三月〜

 このなかで、一番人気のあるのは、やはり東海道五十三次で、続いてルノワール、富嶽三十六景の順だという。竹久夢二が人気あると思ったのだが。
 昭和四十年から昭和四十八年までは、応募券と返信切手で応募してきた消費者全員にプレゼントしていたが、昭和五十三年からはカードの隅についている三角形の応募券を十五枚贈ると、応募者のなかから抽選で毎週二四〇〇名に当たるという形に切り替えた。このときからは郵送料の切手は必要ない。抽選だからあたりまえだが。

 なぜ抽選制になったのか。経費の負担が大きくなって、予算範囲内に制限せざるを得なくなったのか。はたまた豊かな日本になり、名画集の一つくらいは各家庭の応接間に飾られている今日、全員プレゼント開始当初の、消費者へ文化の香りを運ぶ趣旨が没却されてきたと考えたのだろうか。「抽選」のほうが応募者にとって当選の喜びが感じられるからか。しかし毎週二四〇〇名だったら、まず応募者全員が当選すると思われる。
 昔からこのプレゼントで送られて来るカードは、商品に封入されているカードと同じものなのかが疑問だった。表の絵は同じで、裏の文章が違うのだろうか。そうでなければ送られてきたカードで再度応募するということになり、拡大再生産がえんえんとできてしまう。このたび入手できたので確認してみると、商品に封入されていたカードは裏面に応募方法などが印刷してあったのに対し、景品のカードの裏面には、絵の説明が書いてあるという別物である。 
 森永のおもちゃの缶詰とならぶ消費者プレゼントの王者、永谷園カード。私もお茶漬けをたべて、いつか応募してみようと思っていたが、もはや平成九年で応募制度がなくなってしまった。ザンネンムネンである。

※永谷嘉男氏を名誉会長と記しましたが、2005年12月28日にご逝去されております。改稿時に確認を怠ったことをお詫びいたします。串間 努

毎日新聞を増補・改稿

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2007年3月16日更新


[ノスタルジー商店「まぼろし食料品店」]
第28回「アトムシールの誕生の謎を探る」の巻
第27回「お茶を商品化した日本文化」の巻
第26回駄菓子屋のあてクジ「コリスガム」の巻
第25回思わず口から出した「ホールズ」の巻
第24回「ヱビスビールはパンの味がしないかい?」の巻
第23回「アイスコーヒーって誰が発明したの?」の巻
第22回「氷イチゴの沿革」の巻
第21回「洋酒のポケット瓶を集めた中学生時代」の巻
第20回ギンビス「アスパラガス」は野菜がモデル?の巻
第19回「食堂で飲んだ記憶の『バヤリースオレンジ』」の巻
第18回子どもには辛かった「ロッテクールミントガム」の巻
第17回「ミスタードーナツの注文は視力検査か」の巻
第16回「マルシンハンバーグはなぜ焼けるのか」の巻
第15回「マボロシのお菓子(2)」の巻
第14回「マボロシのお菓子(1)」の巻
第13回「日本のお菓子に描かれたる外国の子どもたち」の巻
第12回マクドナルドが「ジャンクフード」になるなんての巻
第11回「カタイソフトとヤワラカイソフトとは?」の巻
第10回「桃屋」の巻
第9回「SBカレー」の巻
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第6回「回転焼と大判焼と今川焼の間には」の巻
第5回「キャラメルのクーポン」の巻
第4回「チクロは旨かった」の巻
第3回「食品の包装資材の変化から見る食料品店」の巻
第2回「名糖ホームランバー」の巻
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第2回「虫下しチョコレート」の巻
第1回「エビオスをポリポリと生食いしたことがありますか」の巻


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