少し前になりますが、米子市公会堂を中心に、上空から写した絵葉書を、手に入れました。公会堂から中海(錦海)まで眺めることができるもので、絵葉書には写っていませんが、左側にある米子城(正確には米子城跡)の城下町を思わせる古い街並みの中に、巨大な近代建築の公会堂が建っています。それも公会堂が建った場所は、きちんと区画整理されており、新しい建物と古い街並みの対比がおもしろく、とてもきれいな絵葉書なのです。それにしても、子供の頃から見てきたのに、当たり前にあると意識しないもので、公会堂の個性的で、モダンなデザインに、あらためて驚きました。
調べてみると、設計したのは、日本を代表する建築家のお1人、村野藤吾さんでした。村野藤吾さんは、明治24(1891)年に佐賀県で生まれ、西日本に多くの建築物が残っているようですが、東京で暮らす私にとって、一番身近に感じるのは、有楽町にある旧読売会館(昭和32(1957)年築)です。会社が新橋にあったので、そごうの時も、現在のビックカメラも、よく行ったからです。以前から迫力のある建物だと思っていましたが、村野藤吾さんの設計だったのですね。
話を米子市公会堂に戻しまして、公会堂の落成式は、今から53年前の昭和33(1958)年4月12日です。飛行機の編隊飛行や、装飾自動車のパレードが行われるほど、盛大な式だったそうです(詳しくは、"ドはドングリのド"をご覧ください。参考にさせていただきました。ありがとうございました)。街の人々に望まれ、喜ばれて誕生したのですね。思うに、この絵葉書は、公会堂がメインな写真であることから、落成式前後に発売、もしくは配られたのではないかと思うのですが(違ったらスミマセン)、昭和30年代の米子の街を写した絵葉書って、案外出てこないので、嬉しい出会いでした。
そんな公会堂ですが、耐震強度不足がわかり、来年より補強工事がはじまるそうです。工事をするにあたっては、新たに建て替えるという意見もあったそうですが、現状のまま修復することになりました。私も公会堂の歴史を少しだけ知って、53年も続いた、米子市の象徴のような建物が残っていくことになり、本当によかったと思いました。それと同時に、公会堂の修復工事が終了したら、この絵葉書と同じアングルで、上空から見た今の街並みも見たいと思うのです。
そしてもう1枚の絵葉書は、「米子市街の一部」ということで、中国電力の建物が写っています。この建物もいいですね。手前にある丸窓の建物も気になります。この建物はなんだったのでしょう。中国電力の前にある大きな松の木(?)も立派で、こんなに大きな木が道路沿いにあったら、見上げて歩いていたと思います。ボンネットバスも時代を感じますね。もちろん私の記憶には残っていない風景ですが、道路の中央に白線が引かれることもなく、信号もなく、時間がゆるやかというか、のんびりとした感じが伝わってくる1枚なのです。
さて、帰省して2日目は、残念ながら、かなり強い雨が降りました。なので、買い物と、娘は家の中の探検です。東京で住んでいるところが、築30年の賃貸マンションで、それもエレベーターのない3階です(ベビーカーと娘を一緒にあげるのは、とても大変)。ベランダから真正面に見えるのは、マンションですから、実家の縁側に座って窓を開けると、広い空が見えて、地面が見えて、目の前には、もみじや楓の葉っぱ、サザンカの花が咲いている景色は、娘には珍しかったようです。滞在中何度も窓を開けてもらい、ジッと見ていました。
3日目は、多少小雨になったので、外の探検開始。境港線を走る、ねずみ男が描かれた汽車を間近に見て、迫力に驚きつつも、通り過ぎた後、一生懸命手を振っていました。
飛行場近くの広々とした景色を、娘はジッと眺めていました。
頭上を飛ぶ飛行機も、最初は驚いていましたが、しばらくすると手を振るように。
そして、一番気に入ったのが海です。歩く感触が楽しいのでしょうか。小雨の中でも、走って海に向かいます。しばらく遊んだ後、私が通った保育園に行きました。近年鳥取では、学校の校庭に芝生を植えているそうで、一面の緑色に驚きましたが、もっと驚いたのは、私が子供の頃に遊んだ、小さなブランコが現存していたことです(登り棒や鉄棒もあるし!)。もちろん、きちんと手入れはされていて、色は変わっていましたが、なんて物持ちのいい保育園なんだろうと思いました。娘は自分で乗れるブランコに大喜びで、誇らしげに座っていて、とても可愛かったです。私がよく登った木も、小さく見えましたが、元気そうで、変わらないことのありがたさが身にしみました。