故郷の最近のブログ記事

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6回にわたって書いてきた里帰りの話ですが、最後にご紹介するのは、米子城跡から見下ろしたと思われる、「米子市全景」の絵葉書です。昔の絵葉書を意識するようになってから、大山や日本海、皆生温泉の絵葉書は見てきたのですが、民家が密集した米子市全景の絵葉書に出会えたのは、とても嬉しかったです。でも、この絵葉書は「米子市全景」の横書きの文字が、右からではなく、左から書いてあります。「意外に古くないのかな? いつ頃なんだろう」と、ひっくり返してみると、「昭和三年十月 鑯道省 伯備線全通記念」と書いてありました。発行された年代が記されていたのは、ありがたいです。それにしても、昭和初期の米子って、こんな感じだったのですね。城下町らしい、今からは想像できない町並みに、感激しました。

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さて、最終日は、米子城近くにある加茂川・中海の遊覧船に乗ってみることにしました。米子で生まれ育ったとはいえ、川から米子を見たことはありません。なんでも、商家として栄えた米子の下町風情を巡る観光遊覧船だそうで、写真でご覧のとおり、白壁土蔵前の天神橋付近の旧加茂川から出発し、下町から中海へ出ます。中海では水鳥公園、粟島を目前にUターンし、再び加茂川へ入り、天神橋に戻るという、約40分のコースなのです。

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今まで意識したことがありませんでしたが、旧加茂川には、橋が何本もかかっており、高さが低いので、くぐる時は、なんだかワクワクしました。

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川に面した町並みも、懐かしい感じで、のんびりイイ気分。少々曇りなのは残念ですが、11月だというのに、気温が20度近くあったのが幸いで、娘も楽しそうです。

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旧加茂川から中海にでると、粟島を目前に船はUターン。目の前には伯耆富士こと、大好きな大山が見えました。余談ですが、テレビを見ていたら、大山がいきなり出てきたので驚き、「なんのCM????」と見ていると、「天使のララ」っていう美容にいい商品のコマーシャルでした。試したことはありませんが、頑張って欲しいと思いました。

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さて、穏やかで、優しい水面を静かに船で走りながら、ぼーっと景色を眺めていたら、境港から米子まで、中海を通って、定期的に観光船を出せたら面白いのに‥‥と思いました。波の荒い日本海は無理ですが、中海なら、定期的に船を出すのは大丈夫そうです。細長い弓ヶ浜半島を移動する交通手段は、境港線を走る汽車とバスですが(自家用車、タクシー除く)、本数が少ないし、その間に"船"という選択肢もあると、楽しいと思うのです。新潟のように広範囲ではなくても、レンタサイクルも用意し、自転車も船に乗せることができるようにして、観光客はもちろん、市内の人や釣り人も利用する交通手段。でも、それだけだと採算が合わないので、米子港に"道の駅"のような市場をつくって、境港から毎日新鮮な魚を運ぶなどして、米子港近辺にも活気を取り戻していただく‥‥。

そんなのがあったら楽しいと思うんだけどなぁ、などと、妄想をしながら、最後に、昔の米子港の絵葉書をご紹介して、里帰りの話はおしまいにしたいと思います。

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旧加茂川の河口から眺めた、米子港だと思います。

  

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里帰りの話に戻しまして、今回ご紹介するのは、最終日に宿泊した"皆生温泉"の絵葉書5枚です。まず1枚目は、昭和30年代頃の葉書で、ボンネットバスが、ずらりと並んでいます。その数は見えるだけでも8台! たくさんのお客さんがいらしたのですね。和装姿の女性が多く写っていますが、旅館の方なのでしょうか。皆生温泉の看板もステキで、上に描かれた温泉マークもいい感じです。

ほかの4枚をご紹介する前に、皆生温泉の生い立ち(?)を、少しだけご紹介します。歴史はさほど古くなく、大正10(1921)年に温泉源を堀りあてたことにより、大正11(1922)年から温泉旅館が次々と開業したそうです。米子駅から皆生温泉までの7キロほどの道のりは、同年7月より、フォード製の幌型バス(12人乗り)の運行がはじまったそうですが、故障が多く、翌年には車両を全部タクシー会社に売却したとか。次にできた交通手段が、路面電車です。その名も"米子電車軌道"。なんと、3年後の大正14(1925)年に開業したという、すごい早さに驚きました。皆生温泉への期待の大きさが、うかがい知れますね。

けれど、時代が悪かったのでしょう。昭和恐慌の影響でお客が減り、赤字が続き、経営陣も変わる中で、陸軍米子飛行場(現・陸上自衛隊米子駐屯地)が建設され、資材等を運搬するにあたり、軌道は貨物輸送の障害になるという理由で、昭和13(1938)年に撤去されたそうです。つまり、米子駅と皆生温泉を繋いだ米子電車軌道は、17年間だけ走った幻の路面電車なのでした。現に、私もその存在を知ったのは、東京にきてからで、皆生に停車している路面電車の絵葉書を見せていただく機会があり、驚いたことをよく覚えています。

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2枚目にご紹介するのは、皆生温泉の大きな看板が、門のように両端に建った絵葉書です。建物の姿は見えず、松林と電信柱、そして、看板の左端を通る、ヨロヨロとゆがんだ線路が、ものすごく気になります。これは、もしや路面電車の線路なのかと思ったのですが、電車が走るには、どう見ても狭すぎますし、だいたい架線もありません。電車の線路じゃないということは、大正11年から14年までの、路面電車が走るまでに、撮影されたモノだと思われます。想像するに、温泉を掘りあてた時にトロッコを使ったのか、もしくは路面電車を通すにあたって、工事で使ったのではないでしょうか。絵葉書には、「皆生温泉三條通入口正面」と、右横書きで書いてあります。 

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3枚目は、「山陰米子皆生温泉(迎松ト三條通)」と書かれた絵葉書で、「皆生温泉 静養館 山陰線米子」のスタンプが押してあります。大きな松の木は、「迎松」と呼ばれていたのですね。先にご紹介した絵葉書にも写っています。看板の先の大きな松の木。新しく開業した皆生温泉で、たくさんのお客をお迎えし、お見送りしてきたのでしょうか。そして、やはり気になるヨロヨロ線路が、先まで続いています。右側には車の姿も。ちなみに、この絵葉書は米子広告社発行で、大正時代のモノだそうです(鳥取の古地図、絵葉書、鳥瞰図(やまちゃんのページ)を参考にさせていただきました。ありがとうございました)。 

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4枚目は、建物が写っています。人力車も停まっており、この人力車はどの辺りまで走ったのか気になります。そして、奥の車には「皆生温泉」の文字が大きく描かれ、幌付きの車であることから、よく故障したという、フォード製の幌型バスだと思われます。絵葉書には「皆生温泉三條通リ」とあり、以上3枚の絵葉書は、皆生温泉が開業して、間もない頃のモノだと思うのです。

それにしても、現在の皆生温泉からは、想像もできない景色ですが、昔はこんな感じだったのだなぁと、まじまじと眺めているのでした。そうそう、皆生には競馬場(草競馬?)もあったそうで、ますます想像できないのですが、これらの事業に尽力された、有本松太郎さんの銅像があったりします。有本さんは、理想的な温泉街をつくりたいと、京都の碁盤の目のような街づくりを目指されたとか。個人的には、米子電車軌道の路面電車が残っていたら、乗りたかったなぁと思い、少し残念です。

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5枚目は「山陰線米子郊外皆生温泉場付近 日野川畔より大山の遠望」とあります。現在は堤防もしっかりつくってありますが、昔の日野川の河口って、こんな感じだったのですね。私も最終日に、日野川まで出てみましたが、大山は雲の中で見ることができず、残念でした。でも、日野川の河口は、日本海と川の間に砂浜ができていて、とても幻想的で、美しい景色を見せてくれました。

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 砂浜の先に見えるのが日本海です。

 

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米子には、ずらりと長く続く、アーケードのある商店街があります。"笑い通り商店街"、"米子ほんどおり商店街"、"元町サンロード商店街"と、3つの商店街名にわかれていて、帰省して5日目、その中の米子ほんどおり商店街にある骨董屋で、この小皿と出会いました。雪だるまのような、つぶれた鳥の絵柄に惹かれ、今回の里帰りの記念にと、瞬時に購入したのです。‥‥なぜ、瞬時かというと、抱っこしている娘が、歩きたがってぐずりますから、なによりスピードが命なのでした。このお店は、6年くらい前から営業しておられるそうですが、店内には染付や印判などの食器類に、古民具や古時計、箪笥などが並んでいました。余裕があれば、じっくり見たかったのですが、仕方がありません。簡単に包んでもらい、リュックにポンと入れて、慌ててお店を出ました。

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この日は、旦那サンが朝一番の飛行機で到着。近所の神社でお参りをし、お墓参りをして、皆生に宿をとりました。荷物を旅館に置いてから、ふらりと商店街の探検です。しかし、2年ぶりに訪れた米子ほんどおり商店街は、様子が一変していました。途中のアーケードがなくなっていたのです。最初に見た時は、自分の長年の記憶にない景色が、突如として現れたので、一瞬どこにいるのかわからないほどでした。それもアーケードがないだけでなく、歩道の両端に緑が植えられ、散歩道になっていたので、ものすごく雰囲気が変わりました。長年頑張っておられる書店も、明るいイメージになっており、驚きつつも、これはこれで、すっきりしていていいかも‥‥と思いました。

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アーケードを撤去した理由は、今年はじめの大雪も原因のひとつですが、なにより老朽化したアーケードを、修復する予算が不足しているからだそうで、今後アーケードは撤去されていくそうです。

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元町サンロード商店街に入ると、アーケードの撤去工事をしていました。鉄骨の骨組みがむき出しになったアーケードを見上げながら、私は工事を見ることができて、本当によかったと思いました。帰ってきた時に、全部のアーケードがなくて、商店街全体がイメージチェンジをしていたら、寂しい気持ちになったと思うからです。

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笑い通り商店街と、米子ほんどおり商店街の途中まで、平行して流れる旧加茂川には、商店街の商店や民家に向けて、沢山の橋がかかっています。つまり、アーケード側と川側から入ることができるわけで、この光景は、当たり前のことのように思ってきましたが、旦那サンに、「自分の家用に橋があるのって、かっこいいよなぁ」といわれ、考えてみたら、すごいことだと再認識しました。

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この橋がたくさんかかっている辺りは、米子ほんどおり商店街ですが、若い人たちが新たにつくりだしたお店が何件もあります。その中に、手づくりのモノをメインに扱っている雑貨店があり、デンと置いてある陶器製の茶色い湯たんぽに、戦前の代用品としての、陶器製湯たんぽしか知らなかった私は、「今も陶器製の湯たんぽって、つくっているんだ」と、新鮮な思いで眺めました。

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そして、そこで販売されていたのが、石巻市にある木ノ屋石巻水産の金華さばみそ煮缶詰です。テレビで何度も報道されていましたが、津波で流され、瓦礫の下に埋まった缶詰を、中身は問題がないということで、発掘して、ていねいに洗って販売した物です。私も買いたいと思っていたのですが、なかなかパッと買いに行くことができずにいました。そんな缶詰に米子で出会えるなんて(それも全額義援金になります)。ご縁と思い、買って帰ることにしました。東京に戻ってから、食べたのですが、缶を開ける時は、あの大きな津波の中を、沢山の瓦礫などと一緒に流れていたのかと思っただけで、言葉にできない気持ちになりました。味は濃くがあって、とても美味しく、今後も買っていきたいと思います。

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それにしても、海がすっかり気に入った娘は、この数日間で、動きがとても早くなりました。 

 

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    さえきあすか -asuka saeki-
    忘れ去られてしまいそうな、昔なつかしいモノたちに魅せられて、コツコツ集めています。古くさいけど、あたたかくて、あたらしい。そんな愛すべきガラクタたちをご紹介します。

    旧サイト連載:
    駅前ガラクタ商店街
    …昭和以前の生活雑貨録

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