文房具の最近のブログ記事

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古物と向き合っていると、「よく考えるものだ」と感心するモノに出会うことがあります。今回ご紹介するガラスペンもそうなのですが、ガラスペンといっても、ペン先ではなくて、まるごとガラスでできたペンで、なおかつ、ガラスの中には細長い紙が入っていて、紙には「松江大橋畔 三島旅舘 電五六三番」なんて、旅館の宣伝が書かれていたりするから、よく考えるなぁと思ったのです。思えば、鉛筆にも広告などの文字が入りますから、ガラスペンもありなのでしょうが、作る手間が圧倒的に違うような気がするのですが、どうなのでしょう。もう1本の紙には、「輕快‥‥堅牢‥‥事務‥‥至寶‥‥光明印複寫ペン」とあり、裏面には「運筆‥‥快走‥‥圓滑‥‥自在‥‥光明印複寫ペン」と書かれています。「複寫ペン」という筆記用具なのですね。

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同じく細長い黄色い紙が入ったガラスペン2本は、六角形で、端から少し離れたところが、くぼんでいて、デザイン性が増しているような感じです。紙には「カーボンペンシル」という商品名が、ローマ字で書いてあり、パテントナンバーが明記されていたので、調べてみると、昭和10年に「複写用硝子ペン」として、東京下谷區の佐々木清治さんによって、実用新案登録されていました。登録内容は、机上で転がりにくく、汗ですべりにくいように、六角形にしたという構造のことで、単純といえば単純なことですが、光明印複寫ペンなど、まるいペンと比べると、確かに机の上で転がらないし、持った感じの指のおさまりというか、安定感がまったく違います。その考えでいくと、ペンの端をふくらませた銀色のガラスペン2種類は、机上ですべらないように、このような形にしたと思われます。なんだか、おもしろい形ですが、他にも種類があるのでしょうか。そういえば、ガラスの簪でも、似たようなモノがあったと思います。
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さて、この複写用硝子ペンですが、どうやって使うのかわかりますか? 今でこそ、書類の複写いえ、コピーをしようと思えば、コンビニにもコピー機は当たり前のようにありますし、プリンターで簡単に印刷もできます。けれど、それらがまったくない時代は、紙と紙の間に黒いカーボン用紙を挟んで、複写用硝子ペンで書く(なぞる)しかありませんでした。それも、当時のカーボン用紙は、現在のように文字が下に写る仕組にはなっておらず、両面転写のみで、2枚の薄紙の間にカーボン用紙を挟み、ガラスペンで書き、上に敷いた紙は、裏に写った文字を透かして読んだそうです。自分が書いた文字が表面に見えないなんて、今では想像しがたい話ですが、同じものを2枚書くよりは、はるかに手間が省けたのでしょう。ちなみに、当時の筆記用具といえば、万年筆か鉛筆ですが、両方とも強い筆圧で書く事ができないため、カーボン用紙を使用した複写には、不向きでした。よって、先端が細く、強い筆圧にも耐えることができる、硝子製の複写ペンが誕生したのです。しかし、戦後アメリカから持ち込まれたボールペンの進出により、複写用硝子ペンの必要性も薄れたのでしょう。市場から消えていきました。

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ところで、最近ようやく"ガラクタ共存記"の更新を、自分でできるようになりました。今までは"まぼろしチャンネル"の管理人である、刈部山本さんにお世話になっていたのですが、更新マニュアルを刈部山本さんが作ってくださり、なんとかできるように‥‥。ありがとうございました。それこそ、私的には、手で複写していたのが、コピー機登場というくらいの、画期的進歩(?)なのでした。

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美しい芝生と松の木が見事な皇居を横目に通過し(梅雨時で曇りなのが残念ですが)、日比谷公園を抜けて、新橋に行ってきました。もちろん、毎度のごとく自転車で、抱っこ紐の中には娘がいます。そろそろ歩きはじめるであろう娘と、こうして合体ロボのような状態で移動できる日々も、そう長くはないと感じながら、のんびり進む自転車は、とても楽しい。そういえば、お腹にいる時も、ロボコンになったような気がしていたっけ。こういう長いようで、実はとても短い時期は、大切にしたいなぁと思います。

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新橋は、私にとって思い入れのある街のひとつです。長年勤めた会社があるのです。結婚後ご無沙汰していましたが、ひさしぶりに顔をだしてみようと思いました。何年も通った道のりですから、とても懐かしく、キョロキョロしちゃいます。けれど、大がかりな道路の拡張工事中で、街並みがごっそりと変化していました。変わっていないビルだって、違う店舗になっていたり、空室だったり、建物自体がなくなって駐車場になったりと、落ち着かない様子で、数年ぶりに眺めてみると、なんだか街も生き物みたいです。今は荒く呼吸をしているように、私の目には映りました。

ひさしぶりに訪れた会社は相変わらずで、上司のIさんは突然やって来た私と娘に驚きつつも、とても喜んでくれ、娘も上機嫌でソファに座って、ブラインドや飾ってある版画をたたいたり、物を落したりと絶好調(?)です。そして、話はやはり3月11日の地震のことに‥‥。Iさんは2日間家に帰ることができず、会社に泊まり込み、倒れた本棚などを、元に戻すのに丸3日かかったそうです。そして、私の古物蒐集熱を加速させたIさんの口からでる、モノや本の今後の話も興味深く聞きました。

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事務所をでたら、自転車の後輪がパンクしていました。自宅までは10キロ近くあります。その上今いる場所は、テレビでよく中継される、新橋駅前のSL広場付近です。こんな大都会で自転車店ってあるのかな? 不安な気持ちを抑えつつ、交番で訪ねると、700メートルくらい先にありました。これは助かったと、のろのろ向かったところ、この地に昔からあったと思われる、懐かしい感じの自転車店が現れたのです。

細長くて薄暗い店内は、年季のはいった工具などが壁にかけられ、丸椅子が数個無造作に置いてあって、飲食店のご主人と思われる方が、煙草を吸いながら座り、足元には太った犬がゴロンと寝ています。一番奥には優しそうな奥さまと、若い女性がお茶を飲んでいて、手前ではお店のご主人と、おじいさま(?)が、つなぎ姿で作業をしておられましたが、パッと手を止めて、私の自転車を見てくださり、「2つ穴が開いているね」と手際よく修理してくださいました。私は丸椅子に腰かけながら、その様子を眺めていたのですが、入口が開放されているので、通りすがりの人が挨拶をしてきたり、話しかけてきたりと、まるで、連続ドラマのワンシーンのようなのです。そして、修理が終わると、ていねいな言葉づかいで、私たち親子を送り出してくださり、昔からやっておられる商人魂というのかな? そんな心意気のようなものを感じて、なんだか嬉しかったです。なにより、パンクがなおってホッとしました。本当に助かりました。ちなみに(資)山下商会というお店です。ありがとうございました。

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今回は、感激した自転車店にちなんで、自転車ではありませんが、二輪絡みの文房具、真鍮製のクリップをご紹介します。山田輪盛館のノベルティです。「山田輪盛館」こと「ヤマリン」といえば、東京は神田の多町2丁目にあったオートバイ、輸入自動車の販売店で、ホクス号などの開発、製造も行ったお店です。それも、明治42年(1909)から営業しておられ、昭和43年(1968)まで存在していました。‥‥といっても、私がそんな有名なお店だと知ったのは、クリップを買った後のことです。ただ、このクリップを"平和島古民具骨董祭り"で見つけた時は、ドキドキしました。だって、見るからに戦前につくられたクリップなのに、状態がよく、中央にはオートバイに乗った男性が描かれ、ローマ字のバランスといい、形といい実に素晴らしいデザインなのです。ちなみに横幅は最大5センチ。またひとつ、過去から今につながる宝物を発見した気分になったのは、いうまでもありません。

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上野にある不忍池を目の前に、娘を抱っこして自転車に乗っていました。たぶん今日、4月14日で東京の桜は終わりだな‥‥と思いながら、黄緑色の新芽がでてきた桜並木と、水面に浮かぶ桜の花びらを、ぼんやり眺めていると、なんだか現実感が薄れてきて、曜日も時間も、どこにいるのかも、わからなくなるような、不思議な感覚に陥ります。
平日のお昼だというのに、ボートに乗っている人や、ベンチで読書をする人、お弁当を食べる人、池のまわりに敷物を敷いて寝ている人、散歩にマラソンと、たくさんの人たちがいます。鳥たちものんびりと楽しそうですし、池の向こうにはスカイツリーも見え、今も昔も、不忍池は人を引き寄せる、都会の中のオアシスのような存在なのだなぁ‥‥なんて思いながら、約100年前の不忍池が写った絵葉書を思い出しました。

時は遡ること大正3(1914)年のこと。不忍池をはじめ、上野公園、首都圏を舞台に、3月20日から4ヶ月間、"東京大正博覧会"なる大イベントを、東京市が主催し、なんと750万人の人が訪れ、大成功をおさめたのです。私は、第二会場となった不忍池の絵葉書を見た時には、とても驚きました。だって、まるで遊園地のように、不忍池を渡るケーブルカーがあるのです。そして、第一会場までの近道としてつくられた、日本初のエスカレーターがあり、空中には、明治43年に日本で製作された飛行機、"会式一号機"こと"徳川式飛行機"が飛んでいます。会場には、さまざまな展示をした物産館や巨大模型が建ち並び、夜にはネオンもキラキラと、当時の科学技術の"最新"が、大集結したような博覧会だったそうです。‥‥といっても、私が大正博覧会の存在を知った、最初のキッカケは、手のひらにのる小さな文鎮でした。


それは直径55ミリの小さな半円のガラスです。底はアルミで覆われ、「教育文具」、「特許出願」の文字があり、ガラスのほうからのぞくと、モノクロ写真が底に貼ってあります。写真には屋根と柱だけでつくられた六角堂のような建物と、それを眺めるように、椅子に腰かけた人たちが写っていました。そして、下には小さな文字で、「大正博覧會 第二會場 音樂堂」とあります。ナルホド。六角堂のような建物は音楽堂なのです。ちなみに文字は、すべて右横書きで書いてあります。博覧会で売られたグッズなのだと思いました。その後、絵葉書を見てビックリ仰天。前述に戻るわけです。そして、この音楽堂は、遠くにケーブルカーを眺めることができる、不忍池の畔に建てられていることを知りました。そんなことを思い浮かべながら、眺める不忍池は、歴史のようなものを感じられて、せつないような、なんともいえない気持ちになります。

実はこの文鎮には、もうひとつ魅力があります。ウランガラスなのです。真っ暗な場所でブラックライトを当てると、緑色に美しく輝くのです。本当は撮影をしてお見せしたいのですが、私は携帯用のブラックライトしか持っておらず、デジカメでの撮影が上手くできません。できるようになったら、ウランガラスについても、ご紹介したいと思います。

それにしても、「特許出願」とありますが、どの部分が特許なのか、番号が明記されていないのが残念です。たぶんアルミがはずれないように、写真をはめ込んでいるあたりだと思うのですが(単純な構造ゆえ、そこしかないでしょう。ただし、登録されたかはわかりませんが‥‥)、「教育文具」の文字も気になります。写真を入れ替えれば、いろんな種類の文鎮がつくれそうです。博覧会でも音楽堂だけでなく、エスカレーターや徳川式飛行機などの文鎮も売られたのかな? 当時はまだまだ写真も貴重な存在だったでしょうから、写す対象によっては、子供たちのあこがれになった、ステキな文鎮だと思います。


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    さえきあすか -asuka saeki-
    忘れ去られてしまいそうな、昔なつかしいモノたちに魅せられて、コツコツ集めています。古くさいけど、あたたかくて、あたらしい。そんな愛すべきガラクタたちをご紹介します。

    旧サイト連載:
    駅前ガラクタ商店街
    …昭和以前の生活雑貨録

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