日溜まりの公園で、暮れなずむ街角で、夜のしじまの中で、ひとり「童謡」を口ずさむ時、幼き日々が鮮やかによみがえる…。この番組では、皆様にとって懐かしい童謡の歌碑を巡ってまいります。今回は、『椰子の実』です。
「名も知らぬ遠き島より、流れ寄る椰子の実一つ…」で、皆さんお馴染みの『椰子の実』。昭和11年に作曲家の大中寅二(*1)が、島崎藤村(*2)の『落梅集』(明治34年)にあった詩に曲を付け、東海林太郎がNHKラジオで歌って全国に広まりました。
『椰子の実』(昭和11年7月13日に発表)
作詞 島崎藤村(しまざきとうそん、1872−1943)
作曲 大中寅二(おおなかとらじ、1896−1982)
名も知らぬ遠き島より
流れ寄る椰子の実一つ
故郷(ふるさと)の岸を離れて
汝(なれ)はそも波に幾月
旧(もと)の木は生いや茂れる
枝はなお影をやなせる
われもまた渚を枕
孤身(ひとりみ)の浮寝の旅ぞ
実をとりて胸にあつれば
新なり流離の憂
海の日の沈むを見れば
激(たぎ)り落つ異郷の涙
思いやる八重の汐々
いずれの日にか国に帰らん |
渚で見つけた椰子の実を眺めながら望郷の思いを吐露するこの歌は、今日もなお広く愛唱されていますが、実は、椰子の実を目撃したのは藤村ではなく、彼の友人だった柳田国男(*3)だったのです。柳田は『海上の道』(昭和27年)という論文の中で、その経緯を次のように説明しています。
「私は明治三十年の夏、まだ大学の二年生の休みに、三河の伊良湖崎の突端に一月余り遊んでいて、このいわゆるあゆの風(*4)の経験をしたことがある。(中略)今でも明らかに記憶するのは、この小山の裾を東へまわって、東おもての小松原の外に、舟の出入りにはあまり使われない四五町ほどの砂浜が、東やや南に面して開けていたが、そこには風のやや強かった次の朝などに、椰子の実の流れ寄っていたのを、三度まで見たことがある。一度は割れて真白な果肉の露(あら)われ居るもの、他の二つは皮に包まれたもので、どの辺の沖の小島から海に泛(うか)んだものかは今でも判らぬが、ともかくも遙かな波路を越えて、まだ新らしい姿でこんな浜辺まで、渡ってきていることが私には大きな驚きであった。
この話を東京に還ってきて、島崎藤村君にしたことが私にはよい記念である。今でも多くの若い人たちに愛誦せられている『椰子の実』の歌というのは、多分は同じ年のうちの製作であり、あれを貰いましたよと、自分でも言われたことがある。
そを取りて胸に当つれば
新たなり流離の愁ひ(原文のママ)
という章句などは、もとより私の挙動でも感懐でもなかったうえに、海の日の沈むを見れば云々の句を見ても、或いは詩人は今すこし西の方の、寂しい磯ばたに持って行きたいと思われたのかもしれないが、ともかくもこの偶然の遭遇によって、些々(ささ)たる私の見聞もまた不朽のものになった。」
遠回しに、「南東方向に面した海岸から、水平線に沈む夕陽なんて見えないじゃないか!」というツッコミを入れていますが、柳田は自身が提供した情報が名曲となって人々に歌い継がれていることに満足していたようです。
さて、『椰子の実』の歌碑ですが、柳田が椰子の実を目撃した伊良湖岬の恋路ヶ浜から東へ約1Km、「日出ノ石門(ひいのせきもん)」という洞門付きの巨岩を望む展望台に建てられています。歌碑の傍らには椰子の木が植えられ、向かい側には曲碑が置かれています。最寄りのバス停から現地まで上り主体の坂を25分程歩きますので、ウォーキングに適した靴を履いていった方がよいかもしれません。
ところで、地元の観光協会では『椰子の実』の歌に因み、毎年、沖縄県・石垣島沖からプレートを付けた椰子の実を100個余り流して、恋路ヶ浜にたどり着かせようとチャレンジしています。平成13年8月には、市内の別の場所に1個漂着したそうです。昭和63年から今年までの累計で、流された実の数は1964個、うち拾われた数は91個。北は山形、福島から南は鹿児島まで、各地で拾われています。発見者は伊良湖岬に招待されて、流した椰子の実のオーナーとご対面するイベントもありますので、海水浴に行かれた際には浜辺で椰子の実を捜してみてはいかがでしょうか。
*1 大中寅二 明治29年、東京生まれ。作曲家。大正9年、同志社大学経済科卒。東京・霊南坂教会のオルガニストを務め、山田耕筰に師事。大正末年、ドイツに留学。昭和7年、第1回音楽コンクール作曲部門入選。宗教曲を多く手掛け、昭和57年に死去。息子の恩(めぐみ)は『サッちゃん』や『いぬのおまわりさん』などの作曲をしている。
*2 島崎藤村 明治5年、長野県生まれ。詩人、小説家。明治24年、明治学院普通学部卒。30年に刊行した処女詩集『若菜集』は、日本近代詩の記念碑的存在。39年、長編小説『破戒』を自費出版し、自然主義文学運動の先駆けとなる。昭和10年、歴史小説『夜明け前』完結。昭和18年に死去。享年71。
*3 柳田国男 やなぎたくにお。明治8年、兵庫県生まれ。民俗学者。33年、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、農商務省農務局に入る。その一方で、島崎藤村、国木田独歩などの文人と交わり、詩人としても知られていた。40年以降、文壇とは次第に遠離り、専攻の農業政策から民俗学の研究へと入る。大正13年、朝日新聞論説委員となり、昭和7年に辞してからは、専ら民俗学の研究に従事。慶應義塾大、國學院大をはじめ各大学で教壇に立った。『石神問答』、『遠野物語』の他、著作多数。昭和37年に死去。
*4 あゆの風 海岸に珍しい貝や物を吹き寄せる風のこと
[参考文献 |
金田一春彦・安西愛子編『日本の唱歌[中]』講談社文庫 昭和54年 |
柳田国男『海上の道』岩波文庫 昭和60年(8刷) |
下中邦彦編『音楽大事典第1巻』平凡社 昭和56年 |
日外アソシエーツ『新訂増補人物レファレンス事典 昭和(戦後)・平成編 あ〜す』紀伊国屋書店 平成15年 |
『世界大百科事典』(平凡社 昭和47年)の「島崎藤村」、「柳田国男」の項] |
|
場所:愛知県田原市日出ノ石門展望台
交通:JR東海道本線豊橋駅又は豊橋鉄道渥美線三河田原駅より豊鉄バス「伊良湖岬」行きバスに乗り、「恋路ヶ浜」バス停下車、徒歩約25分
2006年8月23日更新
ご意見・ご感想は webmaster@maboroshi-ch.com
まで
[ああ我が心の童謡〜ぶらり歌碑巡り]
第46回 『雨』
第45回 『金魚の昼寝』
第44回 『雀の学校』
第43回 『お山のお猿』
第42回 『俵はごろごろ』
第41回 『兎のダンス』
第40回 『青い眼の人形』
第39回 『シヤボン玉』
第38回 『雨降りお月さん』
第37回 『かごめかごめ』
第36回 『蜀黍畑』
第35回 『あの町この町』
第34回 『黄金虫』
第33回 『四丁目の犬』
第32回 『七つの子』
第31回 『背くらべ』
第30回 『浜千鳥』
第29回 『通りゃんせ』
第28回 『宵待草』
第27回 『案山子』
第26回 『仲よし小道』
第25回 『七里ヶ浜の哀歌』
第24回 『城ヶ島の雨』
第23回 『どんぐりころころ』
第22回 『十五夜お月さん』
第21回 『浜辺の歌』
第20回 『叱られて』
第19回 『故郷』
第18回 『砂山』
第17回 『兎と亀』
第16回 『みどりのそよ風』
第15回 『朧月夜』
第14回 『早春賦』
第13回 『春よ来い』
第12回 『鉄道唱歌』(東海道編)
第11回 『赤い靴』
第10回 『靴が鳴る』
第9回 『紅葉』
第8回 『證城寺の狸囃子』
第7回 『かもめの水兵さん』
第6回 『箱根八里』
第5回 『赤い鳥小鳥』
第4回 『金太郎』
第3回 『荒城の月』
第2回 『春の小川』
第1回 童謡が消えていく
[ああわが心の東京修学旅行]
最終回 霞が関から新宿駅まで 〜霞が関から山の手をめぐって〜
第8回 大手町から桜田門まで 〜都心地域と首都東京〜
第7回 羽田から芝公園まで 〜城南工業地域と武蔵野台地を訪ねて〜
第6回 銀座から品川まで 〜都心地域と都市交通を訪ねて〜
第5回 日本橋から築地まで 〜下町商業地域並びに臨海地域を訪ねて〜
第4回 上野駅から両国橋まで 〜下町商業地域を訪ねて〜
第3回 神保町から上野公園まで 〜文教地域を訪ねて〜
第2回 新宿駅から九段まで 〜山手の住宅地域と商業地域を訪ねて〜
第1回 データで見る昭和35年
→ |